さようなら空色

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 職場から帰宅し、シャワーで汗を流し、食事をとり、美術館へ出かける。  大地の夕方から夜にかけての生活は、完全にそのリズムに支配された。余分な汚れを洗い落とし、不足を訴える胃の腑にエネルギーを供給し、ソラの声が待つ場所へ赴く。その一連の流れが、美声に接したさいの快楽を先取りしているかのように心地よかった。  不思議なのは、美術館に通う習慣がついたのを機に、食事と入浴を済ませさえすれば、外出するだけの気力を回復できるようになったことだろう。  日によっては小学生の就寝時間並みの早さで大地を眠らせることもあった、あのどうしようもなく手強い疲労感は、どこへ行ったのだろう?  そんな疑問は、夜の帳が下りた町を歩いているうちに、汗のように跡形もなく蒸発するのを常としていた。  今となっては、街灯の眩しさは歩行者を祝福する温かな光で、喧噪は不快感とは無縁のBGMだ。足取りが軽い。早く、早く、ソラの声が聴きたい。  音の鉱石エリアに到着すると、視界に飛び込んでくる景色はいつも同じだ。空間の右手、手前の方に設置されたガラスボックスの無人。それとは好対照な、奥に設けられたガラスボックスの活況。  夜道を軽やかに歩んできた心に、初めて陰りが生じた。  それでも大地は、ソラの鉱石が展示されたボックスに直行する。ドアを閉ざしたときには、美声をひとり占めできる僕は幸せ者だと、前向きに捉えることに成功している。  テーブルに歩み寄って真っ先に手にとるのは、いつだって空色だ。温める時間は、心の準備を整えるための時間でもある。もう二十回も三十回も聴いているから、声が流れ出すタイミングは予測がつく。 『貴様、頭が高いぞ。俺を誰だと思っている。さっさと跪かんか、馬鹿者が』  大地は両の口角が持ち上がるのを抑えるのに苦労する。ソラに再会を果たせたこと、それが嬉しくてならない。ソラの声が変わらず美しいこと、それが喜ばしくてならない。おとといの夜はあんなにも暗い闇を運んできた、ソラの正体を突き止めるのが絶望的である事実など、声に触れた瞬間に忘れ去っている。  あの日試してみた方法以外にも、やり方がないわけではないのだろうが、現時点では別ルートからの探索は放棄している。ソラの声に触れ、味わう。それで満足していて、余計な真似をしたくない思いのほうが強かった。  昨日、七海は大地に、恋をしているのかと問うた。  僕はソラに恋をしているのだろうか? 「今日も307番を聴いているんですね」  声をかけられて振り向くと、遥が開いたドアからボックスの中を覗いていた。  隙間から体を入れ、ドアを閉ざして大地との距離を詰めてくる。若干の決まり悪さを覚えながら、鉱石を元の場所に戻す。彼に向けられた柔和な表情は、さながら一人遊びをする我が子を見守る母親だ。 「好きなんですね、307の声が」 「そうですね。これまで聴いた中では、一番心地いいと感じる声ですね。他の鉱石も聴きたい気持ちはあるんですけど、まずはこの声が聴きたくて」  そう答えたあとで、遥が物言いたげな目つきをしていることに気がつく。彼女が抱いている感情の対象がなんなのか、咄嗟には掴めなかったが、会話を中途半端なところで途切れさせたくない。 「僕は語彙が貧困だし、説明するのが下手くそだから、想いが充分に伝わっていないかもしれませんね。この前、307に寄付をした理由について説明したときも……」 「ううん、とても的確に言い表していたと思いますよ。好きという想いを表現するために必要なものは、知識でも技術でもないですから。私は307の作品内容を知っているから、発言が的外れかどうかくらいは分かります」 「307の声、時田さんは聴いたことがあるんですか?」 「もちろん。307は、ローティーンの女の子を演じた短いセリフがいくつか、でしたよね。あとは男性的っていうか、男勝りなキャラも演じていたかな。さすがにセリフを一言一句正確には記憶していないけど、透明感のある女性の声だということは覚えていますよ。かわいいというよりも美しい声の持ち主だと」 「ちゃんと覚えているんですね。こんなにたくさんの鉱石があるのに」 「このエリアに展示されている鉱石は全て、一度は必ず聴いています。入館料を払ったお客さまに聴いていただく展示物ですからね。職員の耳を通すのは当たり前じゃないかな」  もっともな正論に大地は頷く。遥の発言は続く。 「くり返しになりますが、よく聴いてらっしゃるなって思いますね。ある程度の愛がないと、昨日みたいに詳細には語れないんじゃないかな。説明が下手だと謙遜されていましたが、307を愛していることがしっかりと伝わりましたよ。ひしひしと伝わってきました」  大地の頬は微熱を帯びる。「好き」ではなく、「愛している」。意味は同じなのに、表現が変わっただけで、どうしてこうも胸を乱されるのだろう。 「307があなたの言葉を聞いたとしたら、きっと喜ぶと思います。私はこんな声をしている人間だから、凄く羨ましい」  その一言が引き金となって、大地は昨日の出来事を思い出した。食事を終え、七海と二人で帰宅している道中、遥の声が話題に上ったことを。  悪声のコンプレックスを克服していなければ、美声が集まる場所で仕事なんてできるわけがない。  七海はそんな趣旨の発言をしていたが、実際はどうなのだろう? 「どうされました?」  呼びかけられて、大地は我に返った。遥が小首を傾げて顔を覗き込んできたので、軽く狼狽えてしまう。 「急に黙られましたけど。私、変なことを言いました?」 「いえ、違うんです。昨日からちょっと引っかかっていたから、触れさせてください」 「……なにかな?」 「声。時田さんの声についてです」  一瞬にして空気が張りつめた。ガラス越しにうっすらと聞こえていた人声と物音がミュートされ、この世界には自分と遥の二人しか存在しない、という感覚が、恐るべきリアリティを伴って胸に迫った。  取り上げようとしている話題が話題だから、様々な意味で懸念はある。しかし、もう後戻りはできない。口腔の唾を飲み下し、大地は話し始めた。  遥は声にコンプレックスを持っているのではないか。先ほどの「羨ましい」発言がそのなによりの証拠なのではないか。昨日今日の大地の307への賞賛を聞いて、内心傷ついたのではないか。もしそうなら、謝りたい。  話し終えると、遥は肩越しに後方を振り返った。その視線の先には、隣のエリアへと通じる出入り口がある。 「座って話をしましょうか。そう長くはならないだろうけど、立ち話をするには長くなりそうだから」  馴染みのエリアに隣接するエリアには、様々な楽器が展示されている。観覧者は片手で数えられるほどしかいない。壁際に設置された三人掛けの木製ベンチの左端に遥が、右端に大地が腰を下ろす。 「緊張してます? リラックス、リラックス。展示物にいたずらをしたのが見つかって、別室に連れてこられたわけじゃないんだから」  遥は体を大地へと斜めに向け、刺のない笑いを含んだ声を送った。彼は意識的に表情を緩めることで返答とした。それが口火を切る合図になった。 「私ね、今の仕事は私の伯父に紹介されたの。今からちょうど二年前。私は今三十一だから、ぎりぎり二十代のときね」  遥の話しぶりは普段どおり滑らかだ。表情や仕草なども含めて、話しにくそうにはしていない。 「声や音にスポットライトを当てた美術館だという情報は、もちろん最初から伝えられていた。私、そのころからすでにこういう声だったんだけど、叔父は、私が自分の声を気に病んでいるとは微塵も思っていなかったみたいで。表向きは平然と振る舞っていたからね。自分の声が人とは違う、個性的なものだということはちゃんと自覚していますよ。でも、どうにもならないことなので気にしないように生きているし、これからも気にせずに生きていくつもりですよ。そんなスタンスだと思っていたみたい」  大地は緊張が緩んでいくのを自覚する。「微塵も思っていなかったみたいで」と言ったあと、遥はいささか芝居がかった挙動で軽く肩を竦めてみせた。それが転換点だったのかと思ったが、すぐに誤りだと気づく。 「ボックスの中での会話で、あなたはコンプレックスという言葉を何回か使ったけど、私が自分の声にコンプレックスを抱いているのは事実だと思う。たとえば、声を聞いた通りすがりの人に『なにあれ?』みたいな顔をされたとしても、『まあ、変な声が急に聞こえてきたら驚くよね、悪気がなくてもそういう反応になるよね』って割り切れる。でも、しっかりと気にしているし、しっかりと傷ついている。実際、『声と音の美術館で働かないか』って伯父から提案されたときなんて、蕁麻疹が出るみたいに嫌悪感が湧いたし」  ――遥は敬語を使わなくなったのだ。 「でも、そのときは私、求職活動中だったのね。もうじき三十路だし、文句を言える立場じゃなかった。つっぱねたところで、他に選択肢があるわけでもないし。ようするに、いやいや働き始めたわけ。最初はやっぱり、怖かったよ。お客さんからなにか言われるんじゃないか、笑われるんじゃないかって、常に怯えていた。平常心を保つのが難しかった。きれいな声が集まっている場だから、どうしても意識してしまって。だけどね」  ベンチに腰かけてから初めて、遥の顔に変化が現れた。微笑が浮かんだのだ。作為が感じられない、過ぎ去りし日を懐古するような、穏やかな微笑が。 「働くうちに、この場所に来る人たちはそんなつまらないことには注意を向けないって、身をもって知った。みんな美しくてきれいな声が好きで、それを聴くためにこの美術館を訪れている。だから、私の醜い声なんてどうでもいいの。なにかが好きで、好きでたまらない人って、多分みんなそんな感じじゃないかな。好きなものに目が眩んで、視野狭窄に陥って、時に周りの人間を傷つけてしまうんじゃなくて、心がとても大らかで、自分からは決して人に不快感を与えない。声が悪いと、それに足を引っ張られて積極的になれないから、どうしても行動範囲が狭くなってしまって、趣味らしい趣味を持てなくて。だから、好きっていう気持ちを持つ人の心のきれいさと優しさは、ここで働くようになって初めて知ったの」  大地は考えずにはいられない。  遥いわく、好きという気持ちを持つ人間は心がきれいだという。  それでは、ソラを愛する僕の心はどうなのだろう。ストーカーまがいの執念で、彼女に繋がる情報を探し求めた僕は。  そして、好きという言葉を広く解釈したならば、目の前にいる人に対しては。 「真剣な顔、笑っている顔、感動している顔。いろいろな顔があるけど、鉱石の声と向き合う人を見ると、ここで働いてよかったって思う。勤務中のささやかな楽しみといっても過言ではないかな。私自身も、仕事としてたくさんの声を聞いたことで、声の素晴らしさを知ることができた。多くの人たちを夢中にさせるのも頷けるな、きれいな声というのは素敵なものなんだなって。この声に比べると私の声はなんて醜いんだろうとか、そういう後ろ向きなことは全然考えないよ。聴いている最中も、聴いたあとも。美しさの度合いに隔たりがありすぎて、比較対象にならないんだろうね。強がるとか割り切るとかじゃなくて、自分の声の酷さと向き合わずに過ごせる場所。それが私にとっての『声と音の美術館』なの」  遥は左胸に宛がっていた手を外し、白い歯をこぼした。ほんの少し、彼女の体が大地へと近づく。 「あなたは人の立場に立って物事を考えられる、心優しい人なんだと思う。でも、私に気をつかって感情を抑えるよりも、ちょっと鬱陶しいかな、くらいに熱く語ってくれるほうが、私としては嬉しいかな。自分の声にコンプレックスを持ってはいるけど、きれいな声が好きで、憧れている人間でもあるからね。だから、私のことなんて気にしないで、素晴らしい声たちを子供みたいに無邪気に楽しんで。そうしてくれたら、美術館に勤める職員としても、一個人としても嬉しいです」  大地はあと一歩で身震いをするところだった。  社会の構成員として生きる限り、人はしゃべることを余儀なくされる。機会が多いだけに、向き合わざるを得ない時間も長い。それゆえに、声にコンプレックスを持った人間は人よりも多く傷ついてしまう。一つ一つは取るに足らないような浅さだったとしても、募りに募れば深く抉れる。快癒など夢物語。傷を抱えながら生きていかなければならない宿命を背負っている。  しかし遥は、限定された空間内ならば、深すぎる傷でさえも全く無視して振る舞えるようになったという。  強い人だ、と思う。時田遥は文句なしに強い人だ。  ソラの声に触れて以来、ずっとソラ、ソラ、ソラだったせいで、失念していた。  ソラに出会えたそもそものきっかけは、遥と会話を交わし、彼女に惹かれたからだったことを。 「時田さんの気持ち、よく分かりました。気をつかったことで、逆に気をつかわせてしまったんですね。ご迷惑をかけてしまって、申し訳ないです」 「謝る必要はないよ。全然迷惑じゃないし。むしろ真剣に耳を傾けてくれて、嬉しかったよ。凄く嬉しかった」 「……あの。時田さんがそうおっしゃるのなら、僕も伝えたいことが」  遥は目を丸くしながらも頷く。瞳の色が少し緊張している。大地から話を切り出してくるとは予想していなかったのだろう。  時田さんなら理解してくれる。絶対に嗤ったりしない。本音を語ってくれた返礼の意味でも、彼女との仲をもっと深めるためにも、この機会に伝えておきたい。 「僕の中では、特定の個人とか物事を好きになる、好きでい続けるのは、恥ずかしいことだという思いがあったんです。多分、自分に自信がなくて、誰かを好きになる資格なんてない、分不相応だ、という思いがあったからだと思うんですけど」  事前に原稿を用意していたわけではないが、スムーズに話せている。その自信が、話しぶりをいっそう滑らかにさせる。 「307番が好きなのかって、時田さんから訊かれたことがあったじゃないですか。それに対して僕は、聴いた中では一番好き、という答え方をしましたよね。消極的に肯定する、みたいな。でも、時田さんから前向きな言葉をかけてもらったので、思い切って言います」  いったん言葉を切る。息をゆっくりと深く吸い、語を継ぐ。 「僕は307の声が好きです。大好きです。この美術館に毎日のように通っているのは、307の声が聴きたいからに他なりません。入館料、今の僕の経済状態だと正直痛いんですけど、そんなことはどうでもいいと思えるくらい好きで。生きがい、みたいな感じですかね。少しでも空白の時間ができたり、つらい思いを乗り越えたりしたいときなんかに、真っ先に思い返す存在、それが307番なんです」  つかえることなく、最低限伝えたかったことの全てを伝えられたので、大地は胸を撫で下ろした。  打ち明けて分かったことがいくつもある。本音を伝えきったあとの得も言われぬ清々しさ。内容がどうであれ、遥は誠意をもって話を聞いてくれること。  もっとも、決意してもなお明かせない事実もある。307番をソラと呼んでいること。ストーカーまがいの執着心で、ネットを通じてソラの正体を突き止めようとしたこと。  しかし、部分的にせよ本音を開示したことは、遥に近づくための大いなる一歩になったはずだ。  大地は今、声を上げて笑い出したいくらいに晴れやかな気分だ。大役を無事に務めきったような充実感に心が満たされている。たとえ相手の反応がネガティブなものだったとしても、悔いはない。そんな心境だったが、 「そうだね。好きだという感情は恥ずかしいことじゃないし、隠すべきことでもないもんね」  遥は年齢よりも幼く感じられる、晴れやかな笑みを浮かべてそう言葉を返した。 「あなたは多分、307が人気の鉱石ではないからこそ、大好きという気持ちを公言しづらかったんだろうけど、なにを好きになるのかは個人の自由だから。まったく興味がないところから、推しの声まで作ってくれて、嬉しいです。ありがとうございます」  最後は美術館職員としての遥に戻り、恭しく頭を下げた。大地も同じ動作でそれに応じる。顔を上げて微笑みを交わしたときには、いい意味で肩の力が抜けている。彼女は軽やかに腰を上げる。 「ごめんね、長々と付き合わせて。戻りましょうか」 「そうですね。……あの、好きと言ったついでに、なんですけど」  大地は上着の内側から紙片を取り出す。展示されている鉱石の声そっくりの声を、プロの声優に依頼して別の鉱石に吹き込んでもらう、というサービスの申込用紙だ。必要事項は全て記入していて、捺印もしてある。 「このサービス、ずっと心惹かれていたんですけど、料金が料金なのでずっと迷っていたんですよ。でも、今日時田さんの話を聞いて決心がつきました。お渡ししてもよろしいですか」 「もちろん。必要事項は――うん、ちゃんと記入されてる」  紙の上を這っていた遥の視線が、一点に留まって動かなくなる。訝しく思っていると、彼女はおもむろに大地と目を合わせ、 「名前、乃木大地っていうんだね。下の名前で、大地くんって呼んでもいいかな?」 「もちろんです。明日も美術館に行くと思うので、よろしくお願いします」
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