さようなら空色

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 アパートを後にして上空を仰ぐと、晴れ間と雲の割合は二対八といったところ。誰がどの角度から眺めても外出日和ではない。  これまでの大地は、ただそれだけの理由で、外に出かけるのを取りやめる人間だった。  しかし日曜日の今日は、これという目的がないにもかかわらず、自らの意思で自室を出た。町をぶらぶらして、気になる店を見かけたら立ち寄って、適当な飲食店で昼食をとって帰ろう。そんな緩やかな計画を胸に抱いて。  大地を積極的にさせた根源は、平日の夜に『声と音の美術館』に足を運ぶ習慣だ。有り余る余暇を、彼はもはや無為には過ごせなくなっていた。  家で過ごしていると、手元に置いておきたくても叶わないソラのことを考えてしまい、鬱々としてやりきれないから。そんなネガティブな要因とともに、ポジティブな要因もある。ソラという癒しの手段を得たことで、疲れを長々と引きずらなくなった。外出する楽しさを知った。この二つが大きかった。  通りの歩道を歩く大地の目は、親子連れの姿を頻繁に捉えた。顔立ちにしっかりと幼さを残す子供たちは、殆どが小学生以下だろう。両親はみな、大地とは十歳も離れていないように見える。  結婚、の二文字が脳裏に浮かぶ。  願望はない。妹の七海の結婚が決まってからも、決まる前も。子供を連れた若い夫婦を見て込み上げるのは、後ろめたさ、そして自分を情けなく思う気持ち。今年で三十になるのに恋人の一人もいないなんて――というお馴染みの想念だ。  それにプラスして、疑問を抱くことも時としてある。  どうして僕は、普通の枠から外れた人間になってしまったんだ?  大地としては、ソラに思いを馳せることで、徐々に沈んでいく気持ちに歯止めをかけたかった。しかし、この状況でそうしても、切なくて、やりきれなくて、逆効果だという気もする。ソラは大地にとっての光だが、即効性のある万能薬ではない。  少し早いけど、昼食を済ませて帰ろうか。 「大地くん」  その声には、弾かれたように顔を上げさせるだけの力があった。  信じられない気持ちで振り向く。歩み寄ってくるのは、紛れもなく時田遥。彼が振り向いたのを機に駆け足に変わった。 「まさかと思ったけど、本当に大地くんだった。奇遇だね」 「あ、はい。本当にそうですね」  どぎまぎしてしまい、一瞬目を逸らしてしまった。美術館の外で遥と会話するのは、出会った日を除けばこれが初めて。場所が違うだけで普段とはなにもかも違うように感じられ、心が落ち着かない。それなのに彼女は、いつものように気さくに話しかけてきて、いつもの調子でしゃべるものだから、かえって緊張してしまう。  遥はジャケットにチノパンツというラフな服装だ。ハンドバッグなども提げていない。ファッションに無頓着だからというよりも、気合いを入れる必要のない外出だから、意識的に気取りを捨てているようだ。 「最初は人違いかとも思ったんだけど、俯いているのがなんだか気になって。間違っていても別にいいやっていう気持ちで近づいてみて、大地くんだと分かったから声をかけたの。外でばったり出くわすイメージ、正直全然なかったんだけど、よく考えると知り合ったのは館外なんだよね」 「そうでしたね。時田さんはチラシ配りをしていて、僕に声をかけてくれて」 「元気なさそうに見えたけど、どうしたの。なんていうか、車道にふらっと進み出そうな雰囲気があったよ。危うい感じがした」 「そうですか? 今日はとても暇で、でも行きたいところは特になかったから、ぶらぶら歩いていたんですよ。特に気分が落ち込む出来事があったわけではないですね」 「それはよかった。実は私も暇なの。せっかくだから、今からいっしょに昼食でもどう? ちょっと早い時間だけど」  遥はチノパンツのポケットからスマホを取り出し、画面を見た。大地にも見せる。正午にはまだ半時間ほど早い。 「お互いに行きたい場所もないようだし、早めの昼食も悪くないんじゃない? 大地くんはなんだか乗り気じゃなさそうだけど」 「いえ、そんなことはないです。ただ、いきなり誘われたので」 「こういうの、慣れてない?」  からかうような、それでいて嫌味ではない笑み。しどろもどろな返答になりそうな予感がして、喉が鳴らないように唾を飲み込むワンクッションを挟む。 「そうですね、恥ずかしながら。でも、嬉しいです」 「つまり、誘いを承諾してくれると」 「はい。食事、ぜひごいっしょさせてください」  これは大変なことになったぞ、と思う。一方で、肩書きを背負わない女性としての遥と無難に会話を交わせている自分に、ささやかな自信を覚えてもいる。 「よかった。大地くんはなにが食べたいとか、ある?」 「特にない、かな。もともと昼食は外で食べる予定だったんですけど、どこでなにを食べるかまでは決めていなくて」 「ノープランなのまで同じなんだね。じゃあとりあえず、飲食店が多い方角を目指して歩いてみようか」  二人は頷き合い、日が昇る方角に向かって歩き出した。 「参考までに訊くけど、大地くんは食べ物はなにが好き?」 「好きな食べ物ですか。……そうですね」 「答えに迷うような質問?」 「むちゃくちゃ好き、みたいなものはないかな。強いて挙げるとしたら、なんだろう。ハンバーグとか?」 「ハンバーグか。なんか、かわいいね」 「えっ、そうですか?」 「うん。かわいいと思うよ。子供向けの食べ物というわけでもないんだろうけど、なんとなくかわいいなって」 「そう言う時田さんはどうなんですか」 「コンビニのスイーツは好きで結構買うかな。ロールケーキとか、プリンとか」 「甘いものが好きなんですね」 「そこは『時田さんもかわいいじゃないですか』って言うところでしょ」 「あ……すみません」 「謝らない、謝らない。大地くんって、割と頻繁に『すみません』って言っている気がする。いつまで経っても敬語だし。私、そんなに威圧感ある? 声のせいかな?」  遥は柔和な表情とはうらはらな、心臓を軽く握りしめるような言葉を吐いた。  冗談で言っているのは声音から分かる。しかし、ある程度真摯な回答が望まれてもいるのも確からしい。 「声は関係ないですよ。時田さんはフランクに話してくれるので、むしろ話しやすいと思います。問題があるとしたら時田さんじゃなくて、僕ですね。普段同年代の異性と話す機会がないから、どうしても緊張してしまって。だから敬語を使って話すほうが、楽は楽なんですよ。時田さんが年上でもあるし」 「そういえば、年齢はもう言っちゃってたんだったね。大地くんはいくつ?」 「今年で三十です」 「一つ下なのね。敬語、個人的にはちょっと気になるけど、話しやすいのならそれで全然構わないよ。思いやりを持って接してくれるなら、言葉づかいや口調なんてどうでもいいことだから」 「確かにそうですね」  大地は深く頷いた。それを機に、話題は今日の昼食になにを食べるかに移った。二人のあいだを漂う緊張感が次第に薄れていくのを彼は感じた。  意見を出し合った結果、ファミリーレストランで食事をとることになった。 「この系列の店、専門学校生時代によく通った。学校の周りには他にもたくさん飲食店があって、安い店なら他にもたくさんあるのに、同じ店ばかり」  入口の自動ドアを潜りながら遥は言う。 「もう十年以上も前になるんだね。なにが好きでよく食べていたのかでさえ、今となっては全然覚えてないけど。大地くんは来たことある?」 「はい。子供のころに両親に連れられて。最近は足が遠のいていますが」  答えながら、時田さんが在籍していた専門学校はどこだろう、と考える。美術関係かと考えたが、遥はクリエイターではない。それにまつわる思い出話への期待が湧いたが、彼女はその話題を語ろうとはしない。尋ねれば答えてくれる気もしたが、 「大地くんは、外食はあまりしない人?」 「そうですね。休日はたまに食べにいくこともありますけど、基本は家で一人静かに」  話題が逸れたので、新しい流れに乗ることを選んだ。 「妹が遊びに来たときも、レストランに食べに行ったんですよ。ファミレスじゃなくて、もっと格式張った店に」  着席後、メニューを遥に手渡しながら大地は切り出した。 「ああ、あの元気な妹さん。お店は大地くんが選んだの?」 「いえ、妹です。僕は店選びのセンスがないので。妹もそれは分かっているから、店はこっちで選ぶから兄貴はお金だけ払って、みたいな。妹は来月に結婚式を控えているので、結婚祝いということで僕が奢りました」 「そうだったんだ。それはおめでとう」 「ありがとうございます」 「妹さんとよい時間を過ごせた? ……寂しくない?」 「寂しくはないですね。ずっと同居していたならまだしも、僕が大学に進学してからは離れ離れで暮らしてましたから。式に参列して、それが終わったあとに心境の変化があるかもしれない、なんて漠然と想像しているんですけど」 「なるほど。確かに、あとから来るというのはそのとおりかもしれない。私も経験は少ないけど、式の最中は雰囲気を普通に楽しめていたから」  口振りからして、遥は主役として結婚式に参加したことがないらしい。大地はその事実に、自分でも気持ち悪いと思うくらいに深く安堵した。 「入ったあとで言うのもなんだけど、ファミレスにしちゃってよかったのかな。妹さんと食べたお店と比べると、見劣りするでしょ」 「美味しい店でしたけど、僕はここみたいな肩肘を張らない店のほうが好きですね。根っからの庶民なので」  七海と食事をしたレストランの話も交えながら、料理を選んでいく。これが食べたい、あれが美味しそうと、二人は目に留まった情報にいちいち反応し、意見を交わし合った。外食をするときはたいてい一人で、注文も簡単に決めてしまう大地には、そんなささいなやりとりも愉快だと感じる。 「少し前までは」  遥はテーブルに肘をつき、組み合わせた両手に顎をのせて、おもむろに切り出した。二人とも注文が決まり、呼び出しベルを鳴らした直後のことだ。 「一人では外食ができなかったの。なぜかというと、注文するときに声を出さなきゃいけないでしょ? それが嫌で」  大地ははっとした。思いがけない告白だったからというのもあるが、それだけではない。遥が自身の声の性質に触れるまで、彼女の悪声を全く意識せずに会話していたことに気がついたからだ。 「メニューの料理名を指差して意思を伝えるのでも、別に構わないとは思うんだけどね。障害を抱えていてしゃべれない人なんかは、多分そうしているんだろうし。でも、私はできなかった。本当は発声できるのに、できないように振る舞うのが嫌だった。だからといって、汚い声を聞かせるのにも抵抗があって。店員さんはそんなことは気にしないって分かってはいるんだけど、どうしてもできなかった。普通でありたい気持ちが強かったんだろうね、あのころの私は。普通の声で普通に注文しなきゃ恥、みたいな」  遥の視線が窓へと流れる。淡い憂いを帯びた瞳を見れば、窓外のなにかに注目を奪われたのではないのは明らかだ。 「普通の人間からすれば馬鹿馬鹿しい悩みなんだろうけど、当時の私にとっては切実な問題だった。他人には理解してもらえない、自分にだけしか分からない苦しみって、誰しもが持っているものだと思うんだけど」  発言はまだまだ続いていきそうな気配を孕んでいたが、ウエイトレスが二人のテーブルまで来た。遥は絡み合っていた十指をほどき、自らが食べると決めた料理の名称を告げる。大地も告げる。 「でも、今はこのとおり、普通に声を出せる」  去りゆくウエイトレスの背中から、大地へと視線を転じて遥は言った。 「大勢の前で長々としゃべるのは難しいかもしれないけど、そんなシチュエーションもなかなかないからね」  歯を見せて微笑む。真似をするように大地も表情を緩める。彼女が言及した「その人にしか分からない苦しみ」について深く考えたい気持ちもあったのだが、微笑みかけられた瞬間にどうでもよくなった。  遥は困難な苦しみに直面したが、乗り越えた。  そして今、心から笑うことができる。  だったら、それで構わないではないか。  やがて料理が到着し、談笑しながらの食事となる。  重荷遥が話を振り、大地がそれに応じるという形で会話は進んだ。話題は他愛もないものばかりが選ばれた。遥自身が多少なりとも関心を持っているコンテンツの中から選び出し、大地の反応によって話頭を転じるか、継続して話すかの判断を下しているらしい。大地から見れば一筋縄ではいかないように思えるその作業を、彼女は事もなげにこなしている。食事も美味しく、心地よい時間が流れていく。 「楽しみなんじゃない、鉱石」  話が途切れたタイミングで、遥がそう切り出した。ペーパーナプキンで口元をさっと拭ってから、 「申込用紙を提出してもらって、確か今日で四日目だから、もうそろそろ届くころだと思う。早ければ今日中かな」 「そんなに早く届くんですね」 「そう、結構早いの。どう? わくわくしてきた?」 「はい。鉱石に録音された声は、どう足掻いても美術館に行くしか聴く方法がないので。同じものではないとはいえ、似た声がいつでも聴けるというのは、凄く助かりますね。もうすぐ届くと聞いて、楽しみな気持ちが強まりました」  楽しみが少ない日常で、ソラ――307番の声に癒され、元気づけられる場面が多々あったことについて話す。ソラに関して得ている新たな情報はないので、美術館でした話を、言い回しだけを変えてくり返す形になった。申し訳ない気持ちはあったが、遥は嫌な顔一つせずに耳を傾けてくれる。途中からは余計なことを考えずに気持ちよく語れた。 「すみません。僕ばかり話してしまって」 「ううん。熱く語るの、微笑ましくて私は好きだよ。大地くん、私と世間話をするときは大人しい感じなのにね。かわいい、かわいい」  悪意がないのは分かるが、からかわれているのだからなにか言葉を返したい。しかし、照れくささの前になにも言えなかった。  遥は言葉を重ねて大地を追い詰めるのではなく、話題を新しいものに変えた。その匙加減を、彼は快いと感じる。  これまでに交わしたやりとりの中でも、この言葉がほしい、こう対応してほしいと思ったときに、遥が望みどおりに動いてくれたことが何度もあった。相手が求めているものを瞬時に正確に察知し、会話の流れをコントロールできる人なのだろう。大地には明らかに欠けている能力だ。  一見違う形に見えても、凹凸が噛み合って円滑に回転する歯車のように、時田さんとなら上手くやっていけそうだ。  空想世界における最愛の人がソラなら、時田さんは現実世界での一番の友だちになるかもしれない。  輝かしい予感が大地の心を静かに昂らせる。残り少なくなってきた皿の上の料理を片づけるフォークとナイフの動きが、食べ始めたころの速度を取り戻した。 「今日は楽しかったです。ありがとう」  遥は浅いが礼儀正しく頭を下げる。それに応じて大地は彼女の倍の角度でお辞儀をした。  ファミレスの敷地内の出入り口近く、車の出入りの邪魔にならない場所で二人は相対している。  食べ終わったら解散と、食事も終わりが近づいたころに合意が交わされた。食後の方針について確認を求めたのは遥で、解散したい旨を伝えたのは大地だ。  発言とは矛盾するが、心地よい時間を延長したい気持ちが彼にはあった。願望も交えて推測したならば、遥も同意見だと思われる。ただ、最初から最後まで合格点を与えられるひとときを区切りとして、快い気分のまま別れるのも悪くない、という思いはそれ以上に強かった。 「大地くんって大人しそうな性格だから、正直不安はあったの。だけど、いい意味で予想を裏切られる結果になって、とても満足してる。凄く楽しくしゃべれたよね、今日は」 「そうですね。時田さんが上手に会話をリードしてくれたおかげで、終始快く過ごせました」 「だからこそ、大地くんに言っておきたいんだけど」  遥は俯いた。左手を心臓の位置に宛がい、難しい顔をしている。言いづらいのか、適切な言葉が見つからないのか。楽しいばかりだった雰囲気の潮目が変わったのを感じ、鼓動が少し速くなる。  沈黙は長引いている。俯いて黙り込んだ直後に「どうされましたか?」と声をかけるのが、ハードルとしてはもっとも低かったのだろうが、後の祭りだ。  おもむろに遥の顔が持ち上がった。どこか自信のなさそうな瞳で、真っ直ぐに見つめてくる。無理をしているのがありありと分かる笑みを灯し、苦しげに唇を動かす。 「ごめんなさい。なんでもないから、今のは忘れて。……じゃあまた明日、美術館で会いましょう」  集合ポストのドアを開けると、分厚い文庫本といった大きさの箱が入っている。  高鳴る心臓の音を聞きながら、大地はそれを取り出す。文庫本よりも軽い。  音の鉱石が届いたのだ。  部屋に入るとさっそく開封した。中央が窪んだプラスティック容器が箱の内側にぴったりと収まっていて、窪みに透明な小袋に包まれた青がある。ラピスラズリ色の鉱石だ。小袋を掴み出し、開封する。  気持ちが昂っている。その熱が伝わり、声が流れ出すのが嫌だったので、元の窪みにいったん鉱石を置く。軽く深呼吸をして、今度はプラスティック容器ごと箱から取り出すと、薄手の説明書が現れた。イラストつきの懇切丁寧な聴き方の解説に、思わず笑みがこぼれた。  しかし、声を担当した声優の名前を見て、一陣の寒風が胸を吹き抜けた。  ――あくまでもソラそっくりな声であって、ソラ本人の声ではない。  やるせない気持ちで説明書を箱に戻す。ただ、怪我の功名というべきか、昂っていた心は平熱に戻った。  演じたのが別人でも、似ているならそれで構わない。まずは聴いてみて判断しよう。  自分に言い聞かせるように心の中で呟き、鉱石を掌に包む。数十秒の間を置いて声が聴こえてきた。 『貴様、頭が高いぞ。俺を誰だと思っている。さっさと跪かんか、馬鹿者が』  大地がくり返し聴いたのと一言一句違わないセリフだ。声も、聴いた瞬間は「ソラっぽい」と思った。  しかし、「ソラそのものだ」という感動はない。似ているか否かで言えば、確かに似ている。そっくりかと問われれば、消極的にではあるが肯定しただろう。  ただ、同じではない。差はわずかかもしれないが、別人の声だとはっきりと聴き分けられる。  大地はソラを知ってからというもの、彼女の声をあまりにも聴きすぎた。だから、具体的にどこがどう違うのかと説明を求められれば、表現力や語彙はともかくとして、ある程度の長さの文章で回答できる。  大地がリクエストしたセリフは、勝ち気で、男性的なところもある、大人の女性のキャラクターの発言を想定していると推察される。ソラの声は大人びているが、第一の特質である透明感、それに続く落ち着きや優しさといった要素が、セリフの攻撃性とは相反している。その隔たりを埋めるために強いられた無理が、ソラのポテンシャルを活かしきれていない印象を生んでいた。声の魅力とテクニックで充分に補えてはいたが、マイナス点がないわけではなかった。  しかし模倣の声は、ソラの声にはない迫力が備わっている。いわば、課題となったセリフを述べるのに最適の声だ。  無理がない分、クオリティ自体はソラに勝っている。ただ、ソラの声を的確に模倣しているか否かという観点から審査した場合、首を傾げざるを得ない。  プロの声優の技巧をもってしても、完璧な模倣は不可能。  ソラそっくりの声を望むこと自体、おこがましい願いだったのだ。  それでも大地は諦めきれなかった。ソラがそばにいるのといないのとでは、天と地ほどの差がある。大地の経済状態からすれば大金を投じた、という事情もある。  くり返し、くり返し、鉱石の声を聴いた。一度温めると、二・三分とはいえ、冷却期間を挟まなければならないのがもどかしかった。藁にもすがる思いだった。似ていないわけではないが、そっくりというほどではない。その評価は、僕の勘違いであってくれ。そんな切実な願いを胸に、「貴様」の一言から始まる声をくり返し聴いた。  しかし残酷にも、聴けば聴くほど、声はソラのそれからは遠のいた。注意深く聴いた結果、ほぼ同じと見なしてきた部分にも綻びが生じ、似ていない、と感じる瞬間が次第に数を増やしていったためだ。  やがて、これ以上聴き続ける意義を見出せなくなり、鉱石を袋に仕舞う。押し入れに箱を封じ込め、畳の上に仰向けに寝ころがる。  酷く投げやりな気持ちだ。昼食を食べてまだ間もないのに、体は重く、気だるい。それは、長らく忘れていた感覚に似ていた。ソラの声と出会う前、仕事を終えて帰宅し、眠りに落ちるまでのあいだ、深刻な疲労感に苛まれているときの感覚と。  視線の先には、すっかり見飽きた天井がある。戻ってきたのだ、と思う。なにもかも思いどおりにならない、気分が憂鬱だ、生きている意味が分からない――。  美術館に足を運んで鉱石を耳に宛がえば、たちどころに治る症状ではあるのだろう。大地が落胆しているのは、声の模倣サービスが期待外れに終わったからであって、ソラの声に倦んだわけでも、失望したわけでもないのだから。  ただ、物憂い気分に支配されている今は、どう足掻いても物事をポジティブには受け止められない。  ソラのことは、今は考えたくなかった。
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