さようなら空色

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 夜、美術館へ向かう大地の心は常にポジティブだ。  ソラの声が待っていてくれるからだ。  確実に待っていてくれる、絶対に会えるという保証があるのが大きかった。鉱石は売り物ではなく、展示物だ。ソラの鉱石は、来館者には見向きもされない。だから、足を運べば確実に聴ける。ひとり占めできる。  商品ではないというのは、金を積んでも絶対に自分の所有物にはできないことを意味する。  この事実を、声の模倣サービスに失望したことで、大地は意識するようになった。  ひとえにそれが原因で、夜道を歩く今日の彼の心には陰りが生じていた。勢力としてはそう強くないが、無視しようと試みても無視できない、そんな陰りだ。 「あっ、こんばんは」  すっきりとしない気持ちは、しかし、遥と再会を果たしたことで好転した。 「日曜日の食事、楽しかった。たくさんお話ができたから」 「こちらこそ。充実したひとときを過ごすことができて、感謝しています」  遥は昨日までどおりに、敬語を抜きにして気さくに話をしてくれる。やりとりを続けているうちに、「ソラの声をいつでも気軽には聴けない」という残酷な現実は、見る見る存在感を低下させた。その問題はひとまず脇に置いておいて、美術館でしか楽しめないことを楽しもう。そう前向きな気持ちになれた。  同時に、思い出した。休日に食事を共にしたさい、遥は別れる直前に「大地に伝えておきたいことがある」と言いながら、結局それについては一言も語らなかったことを。  尋ねるには勇気を要した。現在遥は仕事中で、エリア内には来館者が何人もいるという状況でもある。今が行動に移すのに最適なタイミングなのかは、疑わしい。 「それじゃあ、今日も楽しんでね」  軽くお辞儀をして、遥は去っていった。  今日のところは、ソラの声を聴くだけにしておこう。そう結論し、彼女が待つガラスボックスへ向かう。  まず空色の鉱石を聴き、次いで他の四つをランダムな順番で聴くという、いつものルーティンをこなす。それが終わると、再び空色の鉱石を耳に宛がう。ソラとの運命的な出会いを果たした一個なので、思い入れは強い。聴いた回数は他の四つよりも明らかに多く、倍近くの開きがあるはずだ。  今日もいつものようにくり返し聴いたが、それが失敗だった。昨日模倣の声をさんざん聴いたことが思い出され、切なさに胸が締めつけられたのだ。  この美しい声を聴けるのは、美術館内だけ。手元に置いておくことは永遠に叶わない。  抑圧に成功していたそれらの想念が勢力を取り戻し、心を苛み始めた。あまつさえ、最近は鳴りを潜めていた、ソラの正体を知るのは絶望的だという残酷な現実までもが、足並みを揃えて精神を痛めつける。  大地は鉱石を元の場所に戻した。しばしその場に佇んでいたが、小さく息を吐いてボックスを出る。今日はもう、美術館にはいたくない。  出口へ向かいかけた足を止め、声優Tのボックスに注目する。彼女の声は今日も人気を集めている。それ以外の、プロの声優の声だと判明している鉱石のボックスも、普段と変わらない盛況ぶりだ。  彼らが推しているのはプロの声優だから、模倣サービスに頼らずとも、推しの声を好きなときに好きなだけ聴ける。ソラを愛する大地と比べると、彼らは格段に恵まれている。  この場所にいたくない、という思いはますます膨らんでいく。  うらはらに、壁伝いにエリア内を移動する、という行動を大地はとった。積極的に留まる理由はないが、美術館で得た暗い想念を抱えて帰宅するのが嫌だったのだ。完全に払拭するのは難しいかもしれないが、なにか少しでもポジティブな体験をして、少しでも和らげてから帰りたかった。  歩き出して早々に大地の足は止まる。 「え……」  ガラス越しに、ソラの声が封じられているのとそっくりの、空色の鉱石が展示されているのを見たのだ。  問題のガラスボックスへと歩み寄る。かなり大きな箱で、エリア内では最大かと見受けられる。ドアの真上に「未分類ボックス」というプレートが掲げられている。  中に入り、木箱を覗いてみて、なるほどと思った。通常であれば木箱の内部を区切っているはずの枠が取り払われ、ラベルはどこにも貼られていない。ソラのように声の主の正体が不明で、作品の総数が少ない人物の鉱石が、その他大勢扱いで一か所にまとめられているのだ。  総数はゆうに百を超えているだろう。その中にあって、空色の一個は燦然と存在感を放っている。大地はそれを手にとって体温を伝え、耳に宛がう。  聴こえてきた声に、彼は体の芯から震えた。  歌だ。 『アヴェ・マリア』。あまりにも有名すぎるから、聴いた瞬間に分かった。  歌い手は若い女性だ。声に上質な透明感があり、しなやかかつ伸びやかで、暴力性とは無縁の力強さが感じられる。耳孔に流れ込んできた瞬間からずっと、意識を歌声から逸らせない。身じろぎすることさえも憚られる。正座をして謹聴したいくらいだ。胸の最深部、魂の芯にまでに届き、震わせる、類稀なる歌声。  大地はこれまで、歌唱力が高い歌い手やきれいな歌声に数多く出会ってきた。しかし、比喩でも誇張でもなく魂を揺さぶられたのは、これが初めてだ。美声がもたらす最上級の愉楽を、あらゆる事象からの干渉を受けずに、心ゆくまで堪能したい。本気でそう願った。  透明感があって、伸びやかで、穏やかながらも力強さが感じられる。この歌声は――。 「ソラだ」  確信を込めて呟いたのと同時、鉱石からの歌声がやみ、ボックス内は静寂に包まれる。神々しいまでに荘厳で、少しでも気を緩めたとたんに身震いに襲われそうな、そんな静謐さだ。  セリフを述べるときの声と比べて、力強い印象が前面に押し出されている。それでいて、攻撃的なわけでも、荒々しいわけでもない。漫然と聴き比べただけでは、二つの声は違う人物が発していると勘違いする者も少なくないだろう。  歌が聞こえてきた瞬間に惹き込まれ、高い集中力をもって傾聴していた大地も、最初は別人ではないかと疑った。似ているのは確かだが、ソラを求めるあまり、ソラ本人だと思い込もうとしているだけなのでは、と。  しかし、真偽を見極めるべく歌声と向き合っているうちに、不意に気がついた。 『アヴェ・マリア』を歌うソラは、セリフをしゃべるときのように、架空のキャラクターを演じているわけではない。二つが別人の声のように聴こえたのは、演技性の有無が要因だったのだ。  つまり、『アヴェ・マリア』を歌うソラの声こそ、本来の彼女の声にもっとも近い。  これまで大地は、自分がソラに惹かれる最大の要因は、相性のよさだと考えてきた。彼女の声は確かに美しいが、比類なき美声ではない。ただ、透明感や大人びた落ち着きといった、彼が快いと感じる要素を数多く含んでいる。ようするに、乃木大地という一個人にとってのナンバーワン。そう考えていた。  しかし、『アヴェ・マリア』を聴いたことで認識は修正された。  ソラは世界一の美声の持ち主だ。  頂点に君臨する絶対的な歌姫だ。  もっと歌声を聴きたい。もっと彼女のことを知りたい。彼女にまつわることなら、たとえ悪い噂だとしても構わないから。  鉱石を握りしめたままでいることに、はたと気がつく。興奮状態だったから、冷めるまでには普段よりも時間がかかるかもしれない。もどかしさを感じながら元の場所に置く。  酷く落ち着かない気分だ。長めに見積もるとして、かかる時間は三分? 五分? それとも十分は待たされる? とてもではないが、この場でじっとしていられない。他のボックスにもソラの声が紛れていないか、探してみようか。  などと考えているうちに、『アヴェ・マリア』を収めた鉱石が未分類ボックスに置かれている事実を思い出した。  未分類? 正体不明?  とんでもない! この歌声の主は、ソラだ。セリフを言うときの声とは少し雰囲気が違うので分かりにくいが、確実にソラだ。本名が定かではないのだから、番号で呼ばれるのは仕方ない。しかし、番号さえ割り振られないその他大勢のボックスに放置されているというのは、黙っていられない。 「……時田さんに」  報告しないと。『アヴェ・マリア』を歌う女性の声が入った空色の鉱石は、未分類ボックスの有象無象に埋もれていますが、307の声で間違いありません。そう伝えないと。展示場所の変更を願い出ないと。  空色の鉱石を再び手にとる。ボックスから飛び出そうとして、急ブレーキをかける。――これではまるで窃盗犯じゃないか。  一つ息を吐いて石を戻し、今度こそ透明な箱から出る。  エリア内をざっと見回したが、遥の姿はない。焦燥感に駆られながら通路を歩き回っていると、隣接するエリアから探し人が現れた。名前を呼ぼうとしたが、美術館内にはふさわしくない大声が出てしまいそうで、唇を結んで大股で歩み寄る。押し殺しきれていない靴音を聞き取ったらしく、遥が振り向いた。 「どうしたの? そんなに慌てて」 「展示物に関して、気がついたことがあります。ついてきてください」  そう告げて、体をターンさせて歩き出す。遥は戸惑った様子ながらも指示に従った。 「この空色の鉱石なんですけど」  問題の一個を指し示し、説明する。 「僕、よく307番を聴くじゃないですか。でも今日は、たまたまこのボックスの鉱石を聴いていたんですよ。そうしたら、その空色の石から307の声が聴こえてきたから、驚いて」 「ああ、そうなんだ」  遥は若干ながらも動揺しているように見える。番号が割り振られている個人の声が未分類ボックスにあることに対してなのか。それとも、大地の様子がどこか普通ではないことに対してなのか。 「307のボックスにある方は全てセリフで、こちらは歌だから、別人の声に聴こえたのかもしれません。歌っていたのは『アヴェ・マリア』です。その歌を歌っている鉱石がこの美術館に展示されていることを、時田さんはご存じでしたか?」 「えっと、どうだろう。セリフと歌だと後者のほうが少ないから、詳細は比較的記憶しているつもりなんだけど――ごめんなさい。ちょっと覚えていない、かな」  左胸に右手を宛がって小首を傾げる。まるで興奮しているのは大地ではなく自分で、高鳴る心臓をなだめるためにそうしたかのようだ。 「だったら、聴いてみてください。時田さんなら絶対に分かります。その歌声の主が307だって」  遥は鉱石を一瞥し、大地に向かって頷き、どこかぎこちない手つきで空色を掴みとる。  指の隙間から漏れ聞こえてくる音声から、『アヴェ・マリア』が流れ出したのだと分かった。ソラが歌っていたのはせいぜい一分だったが、他人が聴き終わるのを待つ身には果てしなく長く感じられる。  やがて音声が途絶えた。遥は鉱石を手にしたまま大地のほうを向いた。その顔には表情が浮かんでいない。 「この声が307? うーん、そうかな。私は別人の声に聴こえるけど」  数秒間の呆然自失を経て、失望の念がじくじくと胸を蝕み始めた。とてもではないが遥の発言が信じられない。  307と未分類ボックスの空色の声が、別人? どうしてそんな馬鹿げた錯誤をしてしまうんだ。素人ならともかく、あなたは美術館の職員、しかも音の鉱石エリアを担当する人間だろうに。 「どう聴いても同一人物ですよ。僕は307を聴く機会が多いから、『アヴェ・マリア』を少し聴いただけで確信できました。そうでなくても、全然別ものという感じではなかったですよね。たとえば――」  再再生のために鉱石を冷却するあいだ、大地は二つの声の類似点について語った。遥は普段通り、誠意ある相槌で彼が発信する言葉を受け止める。ただ、意見には賛同しかねる部分も多くあるようで、小首を傾げたり、眉をひそめたりする場面が何度も見られた。  その仕事を目撃するたびに、大地は「なんで」と叫びたい衝動に駆られた。時田さんはプロフェッショナルなのに、なんでそんな簡単なことが分からないんだ? 「そろそろかな。もう一回聴いてみるね」  遥は何分かぶりに鉱石を手にした。一回目と同様、歌声に耳を傾ける横顔は真剣そのものだ。 「――ごめん。やっぱり別人だと思う。大地くんは同一人物だと思いたいようだけど、私にはそうは思えない」  結果は、大地が望んでいるものではなかった。顔には同情を表しているが、口調はさばさばとしている。 「三回四回と聴いても、残念ながら考えは変わらないと思う。この声はこの人のものじゃないかって、お客さんに指摘されて変更することもたまにあるけど、この鉱石に関しては見送りかな」 「……分かりました。お手数をかけて、すみません」  不本意ながらもそう答えた。納得がいかない気持ちはあるが、意思を覆すのは難しそうだから、そう答えるしかなかった。  ソラの真の魅力を理解してあげられる人間は、僕しかいない。  去っていく遥を見送る大地は、心の中でそう呟いた。  その思いは、時間が経っても自然消滅には向かわず、逆に次第に濃度を深めながら、いつまで経っても心に留まり続けた。 『アヴェ・マリア』が録音された鉱石を盗んで、自分のものにしてしまおう。  大地の胸に、そんなおぞましい考えが浮かんだのは、日付が変わったころのこと。消灯したものの、速やかに夢の世界へ移行できず、暗い天井を見つめながら取り留めもなく考えを巡らせているさなかだった。  その企みが社会のルールに背くものだと、もちろん分かっていた。それにもかかわらず、目的を達成するための具体的な道筋について考え始めたのは、退屈だったからに他ならない。空想という罪に問われない方法で、反社会的な世界を歩いてみたいという、臆病な少年のような欲望もあった。  鉱石を盗んで持ち帰るには、展示されている石を服の内側に隠して、音の鉱石エリアから館外へと移動すればいい。セキュリティ関係の装置は出入り口付近にはなかったはずだから、建物の外に出るにあたって必須なのは、何食わぬ顔をすることだけ。問題は、いかに来館者と職員の目を盗んで、鉱石をポケットの中に忍ばせられるか。簡単ではないが夢物語ではない。  体温が緩やかに上昇していく。触発されたかのように心音が徐々に速くなる。  やろうと思えば、やれる。ソラの声を手元に置いておける。  大地はこれまでの人生を品行方正に歩んできた。罪を犯したことは、未遂を含めて一度もない。このことを彼自身は誇りに思っているし、人生の終焉までそのような人間であり続けると信じている。  ただ、心は揺れている。振幅はさほどでもないが、完全に鎮めるのはそう簡単ではない揺れだ。なにかの弾みで呆気なく道を踏み外してしまいそうな、そんな危うさを感じている。 「……僕は」  罪を犯してまでソラを手に入れるべきなのだろうか?
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