さようなら空色

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 大地は初めて、ソラの魅力的な声とは直接関係のない下心を抱いて、美術館へと赴いた。鉱石を盗み出すにあたっての障害はないかを可能な範囲内で調べたい、という下心を。  入館してすぐの場所で、天井や壁の高い位置をさり気なく、それでいて念入りに確認する。防犯カメラの類は設置されていないようだが、隠しカメラが取りつけられている可能性もあるので、安全だと断定はできない。  ただ、仮に死角となった場所でカメラが作動しているのだとしても、鉱石は掌に隠れるほど小さいのだから、ポケットに忍ばせておけば犯行は露見しないはずだ。そう結論し、音の鉱石エリアへ向かう。  未分類ボックスではなく307番が展示さているボックスに入り、空色の鉱石の声を聴く。五種類の声を全て聴いてから、ボックスの中からエリア内を観察する。  昨夜、盗み出すシミュレーションをしたときは歯牙にもかけなかった、人の多さが気になる。未分類ボックスは307のボックスとは違い、立ち寄る人間もちらほらといる。大地が遠目から様子をうかがっている今も、ちょうど二十歳くらいの女性二人組が中に入り、鉱石を聴き始めたところだ。  ボックス内から鉱石を持ち出すのに支障はない。人目に触れない場所、たとえばポケットなどに鉱石を隠してしまえば、そのまま館外に出られるだろう。  問題は、いかにして鉱石をポケットに隠すか。犯行を成功させられるか否かは、この一点にかかっているといっても過言ではない。  重たいものでも大きなものでもないのだから、誰も大地のほうを見ていない隙に素早くポケットに押し込んでしまえばいい。  言葉にすると簡単なようだが、「誰も見ていない隙に」というのが曲者だ。鉱石を掴み、ポケットに入れ、掴んでいた手を出すまで、約五秒。その時間内に、エリア内に存在する全ての目が大地のほうを向かない瞬間など、永遠に訪れない気がする。未分類ボックスがあるのはエリアの中央やや左手前寄り、すなわち四方を警戒しなければならない場所にある。そのようなプレッシャーがかかる状況下での犯行は、心理的にも精神的にも厳しそうだ。  大地は気が弱い。子供なら誰もがよくやる、罪に問われない程度の軽い悪戯でさえ、一度もしたことがない。  そんな人間が、窃盗などという、大それた真似ができるのだろうか?  やはり、馬鹿げた犯行は断念するべきなのだろうか?  未分類ボックスから女性二人組が出てきたのを見て、大地はボックスを出てそちらへと移動した。約一日ぶりに聴いたソラの『アヴェ・マリア』は、やはり身震いするほど素晴らしい。大げさな表現が許されるならば、この世のものとは思えない。この声を自分のものにしたい――改めてそう思った。  とはいえ、失敗する可能性が高い作戦を、当たって砕けろの精神で実行するのはためらいを覚える。  エリア内の来館者の数がもっと少なければ、もしかしたらチャンスがあるかもしれないが……。  七海はいつだって兄の虚をつくタイミングで連絡を寄越す。 「兄貴、電話に出るの遅いよ。なにしてたの?」 「お前、いつも『出るのが遅い』ばかりだな。毎回毎回すぐに出られるわけがないだろ。今から出かけるところなんだけど」 「どうしたの、そういら立って。女の人に会いに行くところ?」 「違うよ。女性もいる場所ではあるけど、特定の個人に会いに行くわけじゃない。夕食が済んだから美術館に行こうと思って」 「美術館通い、まだ続いてたんだ。珍しい。『音と声の美術館』だっけ」 「『声と音の美術館』だよ。ていうか、七海は僕になんの用? もしかして、暇だからかけてきた?」 「正解。最近連絡とってなかったから、どうしてるのかなと思って」 「いっしょに食べに行ってから、まだ一週間も経っていないけどね。七海はなにかと慌ただしいから、時の流れが速く感じられるのかな」 「ああ、そうかもね」 「暇なら旦那に相手にしてもらえよ。隙間風が吹いてるとかじゃないだろうな」 「不吉なこと言わないでよ。残業してて帰りが遅いだけだから。隙間風が吹いてるのは兄貴の部屋でしょ。住む部屋くらい、もうちょっとましなところを借りればいいのに」 「余計なお世話だ」  互いに薄く笑う。  七海と宮城雄大のあいだになんの問題もないことくらい、大地は百も承知だ。兄に連絡を寄越すのは、むしろ彼女に精神的なゆとりがあるからだと、彼は経験から知っている。 「七海、もう切ってもいいか。そろそろ出発したいんだけど」 「えー、早くない? 歩きながら話そうよ」 「駄目だって、歩きスマホは。閉館時間の関係もあるし、いい加減切りたいんだけど」 「じゃあ、今日はまあいいや。でもさ、兄貴」 「なんだよ」 「兄貴がそこまでなにかに執着するって、ほんとに珍しいよね。ちょっと怖いかもしれない。なんていうか、変なことをしでかしそうで」  大地は動揺した。鉱石を盗み出す計画を看破され、遠回しに指摘されたのかと思ったからだ。言葉を返すまでには、不自然だと思われても仕方がないくらいに間があいた。 「変なことって、なんだよ」 「どう言えばいいのかな。物事に淡泊な人がいったんなにかにのめり込むと、度を越してのめり込みそうじゃない? 兄貴からなんとなくそんな雰囲気を感じたから、そうなったら嫌だなって。分かる? あたしが言っている意味」 「まあ、分からなくはないけど」 「こっちは挙式を控えてるんだからね。間違っても馬鹿なことやらかさないでよ」 「やらかすって、高価な美術品を盗むとか? そこまで入れ込んでないよ。僕は美術品がどうこうというよりも、美術館の雰囲気が好きで通っているんだから」 「雰囲気? ああ、そっち派ね。だったら、そうだな。少しでも大きな声でしゃべっている客を見つけると、いきなり胸倉掴んで、唾を飛ばしながら『騒ぎたいなら余所へ行け』とかなんとか捲し立てる、みたいな?」 「おい、どれだけ僕をやばいやつに仕立て上げたいんだ」  それからははっきりと冗談だと分かるやりとりが何往復か続いて、「マジで時間なくなるから」と大地から通話を切った。  鼓動がいくらか速まっていることには、七海との通信が断ち切られたあとで気がついた。額にうっすらとかいた汗は、美術館を目指して歩いているうちに、夜風に冷却されて消えるだろう。  口振りや言葉の選び方などから総合的に判断した限り、美術館通いが続いていることに対して、七海が薄気味悪さを感じているのは確からしい。ただ、そのあと口にしていた「変なことをしでかしそう」発言に関しては、完全なる冗談だろう。そう言ったあとずっと、七海が含み笑いをしていたのがなによりの証拠だ。  ――とはいえ。 「……危なかった」  計画を見透かしているかのような発言をされて、大地を襲った動揺は決して小さくなかった。それでも平常心を保てたのは、「やばいこと」の具体例として、「高価な美術品を盗む」と口にできたのが大きかった。あのおかげで開き直ることができ、ふてぶてしく受け答えができた。美術館へ出かけるという名目のおかげで、早めに通話を打ち切れたのも運がよかった。七海は間違いなく、兄が邪な企みを胸に秘めていることには気がつかなかった。  ただ、心境は凪からは程遠い。  結婚式が台無しになるから愚行は謹んで、という七海の発言が、いつまで経っても消えてくれない。  鉱石を盗むという選択肢を思いついてからというもの、大地は自分のことしか考えてこなかった。  どうすれば誰にもばれずに盗み出せるだろう。犯行に成功したらどんなに素晴らしい日々が待っているのだろう。逆に手に入れられなかった場合、どれほど惨めな生活を送らなければならないのか。  己に関係する利害にばかり目が向いて、他人にどのような影響が及ぶかなど微塵も考えなかった。  仮に犯行が失敗に終わって、大地の罪が近しい人に伝えられたとして、もっとも損害を被るのは、七海と夫の宮城雄大の二人だ。結婚式は当然、中止に追い込まれるだろう。それだけで済むならまだいいが、婚約解消に発展しないとも限らない。美声を自分だけのものにしたいというエゴが、二人のなんの落ち度もない人間を不幸に突き落とすことになるのだ。  それだけではない。勤め先からは、解雇を言い渡されるだろう。両親には、勘当に近い処置を下されるに違いない。現在の住まいに、果たして住み続けられるかどうか。  さらには、遥にまで迷惑をかけることになる。  大地の足は止まる。前方に赤信号が待つわけでも、目前に障害物があるわけでもない、雑居ビル前方の歩道の一点で。  後方を歩いていたスーツ姿の男性が、突如として進路に出現した障害物に急ブレーキをかけ、迷惑そうな一瞥を投げかけて追い抜く。前から歩いてきた中年女性が、怪訝そうに横目をくれながらすれ違う。彼ら以外の通行人は、大地には目もくれない。  歩き慣れたはずの夜の街が、酷くよそよそしく感じられる。呆然と立ち尽くす大地の真っ白な頭の中に、もう一人の自分の声が響く。 『引き返せ。後悔は先に立たないぞ。今ならまだ遅くない』  大地は小さく頭を振り、美術館を目指して歩き出した。  彼は臆病な男だ。明確で重大なリスクを認識した時点で、犯行の意志は大きく萎えていた。ソラのためとはいえ、自らに降り注ぐ不幸が、周りの人間に降りかかる迷惑が、あまりにも大きすぎる。彼が美術館へ向かっているのは、既定の入館料を払い、合法にソラの声を聴くためであって、犯行を実行するためではない。  ただ、道中、一度だけ暗い想念が胸を過ぎった。  ――犯行がばれなければ誰にも迷惑はかからない。 「大地くん、こんばんは」  音の鉱石エリアに入ったとたん、遥に声をかけられた。偶然だと分かっていたが、待ち構えられていたような気がして、挨拶を返すのがワンテンポ遅れた。 「昨日は見かけなかったけど、来てくれたの?」 「はい。早めに帰ったので、会うチャンスがなかったみたいですね」 「大地くんは307単推しだけど、彼女の鉱石の数はそう多くなかったよね。そろそろ新鮮味が薄れるころかな」 「いえ、そういうことではないんですけど」 「307とは直接は無関係だけど、刺激をもたらすという意味では、こんなイベントはどうかな」  遥の手元で紙がかさつく音がした。彼女は後ろ手に一枚のチラシを隠し持っていて、それを渡してきた。 「ああ、声優のトークショー。いつかの夜に時田さんが配っていたチラシに書いてあったイベントですね」 「そうそう。それが三日後の日曜日にあるから、伝えておきたくて。大地くん、307に熱を上げていて、イベントには全然言及してくれないから」 「すみません。すっかり忘れていました」  やっぱりね、というふうに遥は苦笑したが、怒っているわけではないようだ。 「どうして伝えたかったかというとね、私、トークショーの司会を務めることになったの」 「司会、ですか」  大地は再びチラシに視線を落とす。司会者名までは出ていないが、声優と司会によるトークショー、と明記されている。ゲスト出演する声優のTは、音の鉱石エリアで常に最高の人気を集めている人物だ。 「Tさん、今凄く勢いがあるし、人気でしょう。プロの声優さんがゲストということで、普段は美術館に足を運ばない人もたくさん来てくれるだろうし、今から緊張してる」 「時田さんはどうして大役を引き受けたんですか?」 「その声で、よく人前でしゃべる仕事を引き受けたな。……そう言いたいの?」  明らかに冗談だと分かる口振りだったし、口元は穏やかに笑ってもいた。それでも、大地は返答に窮した。 「本来であれば、私よりも年下の子が任される予定だったの。だけど、その子はプレッシャーに弱くてね。Tさんが人気なのはよく分かっているし、『大勢の客が押しかけるぞ』ってみんなが脅すようなことを言うものだから、すっかり怖気づいちゃって。他に名乗り出る人がいなかったから、私が立候補したわけ」  大地から視線を外し、なにかに思いを馳せる顔つきになる。 「大地くんと食事をしたとき、口頭で料理も注文できないような状態からは脱したけど、大勢の前で長くしゃべり続けるのは難しいんじゃないかな、という話をしたよね。それってようするに、コンプレックスを完全には克服できていない、ということなんだけど」  遥が目を合わせてきたので、大地は首を縦に振る。 「だから、これを一つのきっかけにしたいと思っているの。駄目元でぶつかってみる、ということじゃないよ。大物ゲストがわざわざ来てくださるのに、自分勝手な冒険はできないっていうか、してはいけない。司会の大役、今の私なら無難にこなせると自負している。この美術館で二年以上働いて、日々お客さんと接して、もう大丈夫だって分かった。だからこそ、私は立候補したの」  遥は歯を見せて微笑む。気後れの色はうかがえない。気負ってもいない。漲る自信が香気のように全身から発散されている。 「晴れ舞台、なんていうと大げさだけど、私のこれまでの歩みを考えると大げさではないのかもしれない。こんな声だし、上手い司会もできないと思うけど、全力で挑みたいと思ってる。素人にしてはよくやったって褒められるくらいにはね」 「……時田さん」 「だから、よかったら、大地くんもトークショーを見に来て。私の雄姿をその目に焼きつけて。もし時間があれば、ぜひ」 「時間は大丈夫です。絶対に見に行きます」  力強く言い切った瞬間、遥の顔に明らかな変化があった。 「本当に? よかった」  満面の笑みが咲いたのだ。  開けっ広げなその笑顔は、いい意味であどけなくて、時田遥らしいと感じられて、とてもかわいいと思った。司会の大役を無事に成功させた暁には、こんな顔になるのかもしれない。そう思わせる笑顔でもある。 「大地くん、ありがとうね。それじゃあ、ごゆっくり」  足取りも軽やかに遥は去っていく。  後ろ姿が視界から消えるまで見届け、大地は大きく息を吐く。思っていたよりも大きな声が出て、感じていた重圧がいかほどだったかを知った。  遥の喜び方が予想以上に大きかったので、心の揺れは決して小さくなかった。動揺が顔や態度に出ないか、気が気ではなかったが、なんとか乗り切った。  大地はトークショーを見に行くつもりだ。司会を無事に務め上げてほしいと思っているし、務め上げられると信じてもいる。この一件が、真の意味でコンプレックスを克服するきっかけになってほしいと、もちろん願っている。  ただ、彼の意識の焦点は遥には定められていない。彼女と会話を交わす中で、世にも恐ろしい考えに到達したから。  声優のTはこの美術館の来館者からだけではなく、世間一般の人々からも広く人気を集めている。したがって、当日は多くの人々がTのトーク目当てに来館すると予想される。Tのファン以外にも見学に参加する者は少なくないだろう。トークショーを観覧するのが目的で来館した者たちは、館内を見学することがあるとしても、イベントが始まる前、あるいは終わってからになるはずだ。  つまり、トークショーが行われているあいだ、音の鉱石エリアの人口密度はかつてないほどに低下する。  鉱石を盗み出す絶好のチャンスだ。  本当は分かっていた。  鉱石を盗み出すのが成功するにせよ、失敗に終わるにせよ、美術館の職員、しかも音の鉱石エリアの担当者である遥に迷惑がかかるのは避けられないことを。  そして、『アヴェ・マリア』の鉱石が盗まれれば、大地が307番の声を愛好し、件の鉱石の声が307番ではないかと疑っていると把握している遥は、真っ先に大地の犯行を疑うだろうことを。  大地は元来、慎重で臆病な人間だ。その手の人間の多くがそうであるように、行動に移る前にまずはじっくりと考える。善悪の判断は正常に下せるし、頭もそう悪くない。いくらか時間が経ち、「『アヴェ・マリア』の鉱石を盗む」という熱が冷却されたならば、犯行を思い留まっていた可能性が高かったはずだ。  ただ、トークショーが絶好の機会だと認識した時点で、イベントが開催されるのは三日後だった。熱が充分に冷ますにはあまりにも短すぎた。  眠りが浅い日が続いた。  安眠を妨げていた要因は、罪悪感ではなく心の昂ぶりだった。
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