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太陽が昇っている時間帯に大地が美術館を訪れたのは、七海と食事を共にした日以来、これが二回目だ。
しかし、今日はあの日とはなにもかもが違う。
まず、人が多い。出入り口付近に十名以上の来館者がいる時点で、大地にとっては初めての光景だ。話し声が一帯を満たしている。建物をバックに記念撮影をしているグループもいる。町の片隅にひっそりと佇む美術館、という普段の雰囲気は失われている。
そしてなにより、大地の心境が違う。胸に悪しき企みを抱えているという、決定的な差がある。朝目覚めたときから神経質になっているし、緊張感を覚えていて、あらゆる物事に対して不安で仕方がない。
腹痛や過度の発汗などの身体的な症状は現れていない。表向きは普段どおりに振る舞えている。自室を出てすぐにアパートの住人と顔を合わせたさいには普通に挨拶ができたし、住人も違和感を覚えた様子もなく挨拶を返した。
心構えを除けば、本日の大地は普段となに一つ変わらない。服装もそうで、上はパーカー、下はジーンズにスニーカー。ジーンズのポケットの間口はそう広くないが、普段とは雰囲気ががらりと違う服装にして疑惑を持たれるくらいなら、多少のデメリットを承知でいつもどおりを選ぶべきだと判断したのだ。
期待に胸を弾ませる人々を横目に自動ドアを潜る。すっかり顔なじみになった受付の女性職員に入館料を支払う。
鉱石をポケットに忍ばせて目の前を通り過ぎるとき、僕はこの人に向かってお辞儀をするだけの平常心を保てるだろうか?
胸の底から湧き上がってきたそんな疑問を、大地は見て見ぬふりをした。
壁の掛け時計を見上げると、イベント開始まで二十分を切っている。そろそろ中庭まで移動してもいい頃合いではあるが、まずは音の鉱石エリアに足を運ぶ。
エリア内は普段よりも閑散としている。声優Tのボックスに集っているグループと、他のボックスに散っているグループ、この二つに大別できる。前者はトークショーが始まるぎりぎりまで推しの声を堪能したいTのファンで、後者はイベントに興味がない人々だろうか。後者だけが犯行時に館内にいると仮定しても、普段のエリア内の人口の四分の一程度に過ぎない。緩みそうになった口元を引き締め、中庭へ向かう。
屋外の特設ステージ前には無数のベンチが置かれ、すでに大勢の人々がトークショーの開始を待ち受けていた。総勢五十名に達しているだろうか。
静かな館内とは対照的な賑わいに、大地は少し戸惑った。しかし、その感情はすぐに沈静し、口角に笑みを浮かべた。この環境なら途中で退場しても目立たないな、と。
遥とはトークショーを見ると約束したが、最初から最後まで見るとは言っていない。ただ、感想を訊かれるはずだし、彼女の晴れ姿を見たい気持ちもあるから、中盤くらいまではこの場に留まりたい。人目とアクセスを考慮して、群衆の最後尾、建物の入り口に近い場所にポジションをとる。
開幕を待っているあいだは、意外にも落ち着いた気持ちでいられた。嵐の前の静けさなのかもしれない、と思う。犯行の最中は鼓動が速まり、夏場のように汗をかき、手足が震えるのだろう。大地としては成功を祈るばかりだ。
やがてステージ上に人が出てきた。遥と、同僚と思しき二人の男女。三人とも薄手の冊子を手にしていて、顔を寄せ合って言葉を交わす。袖から現れた別の一人がマイクを手渡し、音声テストが行われる。椅子が用意される。マイクが遥の手に渡った。
「本日はトークショーにお越しくださり、ありがとうございます。ゲストのTさんはすでに来館なさって、控室で待機しています。開始まであと五分少々ですので、もうしばらくお待ちください」
聞き慣れた濁声が耳に届いた瞬間、大地の緊張は爆発的に増大した。
今日の来館者は常連ではない者の割合が高い。こんな特徴的な声の職員がいるとは知らなかった人々は、どう感じただろう?
そう案じたが、群衆のあいだにざわめきが起きることはなかった。
当たり前だ。この場にいる人間はみな、Tにしか関心がないのだから。
やがて遥以外の人間がステージ上から退いた。わずかながら、観客たちの声が抑制された。マイク越しの遥の声が開幕を告げると、観客席から何人かが拍手を鳴らした。待ちに待ったイベントが始まることへというよりも、待ちに待ったTが現れることへの期待を示したもののように、大地には感じられた。
ほどなく、遥の紹介を受けてTがステージ上に現れ、万雷の拍手が鳴り響いた。
刹那、大地を中心とする狭い範囲内から音が消失した。殆ど同時に寂寥感が胸に芽生え、怒涛の勢いで意識を侵食していく。
ステージの上に立つのが遥だけになって以来、大地はずっと彼女だけを見ていた。鉱石を盗み出す未来に神経質になり、不安がり、怖がっていたことも忘れて、彼女の言動に意識を注いだ。
遥は堂々としているように見えた。口調こそ客向けに多少のアレンジが加えられているが、人柄のよさと誠実さがありありと感じ取れる、彼女らしさが過不足なく表れた話し方だ。話しぶりや態度からは落ち着きが感じられ、素人特有の危うさは感じられない。安定感があり、安心して見ていられる。
恐らくはそれが効果的に働いて、声が持つ個性がいい意味で薄らいでいる。観客の意識の重点が声優Tに置かれていることを考えれば、遥の声の性質を気にかけている者は恐らく皆無だろう。
ぜひとも雄姿を見届けて。司会を務めると明かした日、遥は大地にそう伝えたが、彼は今、そうしたい気持ちでいっぱいだった。中盤までではなく、最後まで見届けたい。そうすれば、鉱石を盗む意欲も消え、正気に返るのではないか。そんな懸念とも期待ともつかない思いも湧いた。
しかし、遥と向き合いたい意欲が漲っていたのも、観客が一斉に拍手を打ち鳴らすまでだった。
Tに対する期待と好意が、音という形式で明示されたことで、遥を捉えていた眼差しは揺らいだ。一人でいたときは輝いていた姿が、急にみすぼらしく見えたのだ。
あくまでも相対的に、なのだが、比較対象があまりにも輝かしすぎて、本質的に醜いのではないかと本気で疑った。熱意をもって凝視していた自分が恥ずかしくなった。自分一人が勘違いし、浮かれていたのだという思いが、重苦しくのしかかる。
Tが第一声として発信した挨拶の言葉は、若い女性らしい瑞々しさが横溢していた。それに続いての「よろしくお願いします」に贈られた拍手の音量は、垣間見せた片鱗に相応だと大地は感じた。
歯切れよくはきはきとしゃべるTの前では、少しの油断で純然たるノイズへと堕しかねない声の持ち主である遥は、司会者という役割を宛がわれた脇役でしかなかった。Tがあまりにも魅力的すぎて、引き立て役にすらなれていない。人気のプロ声優を前にしても堂々と振る舞っているのに、遥が唇を動かせば動かすほど、遥の陰りは深まっていく。
誰もがTに魅了される中、大地一人だけが、遥とTの両名を同時に視界に映し出し、酷薄な現実を直視していた。
しかし、向き合うのももはや限界だ。
ステージ上では現在Tがしゃべっている。マイクの力を借り、活舌よく発話しているが、内容は十分の一も頭に残らない。
大地は足音と気配を殺して中庭を後にした。
館内は森閑と静まり返っていた。中庭に出る前は、静かなりに人の気配が蠢いていたが、それすらも感じられない。
美術館通いが日課になって初めて体感する静けさに、大地の意識は瞬時に計画へと引き戻された。彼はこれまで、来館者全員がトークショーを見に行くわけではないと考えていたが、それが揺らいだ。人が少なすぎるこの環境で犯行に踏み切れば、かえって目立ちかねない。
「馬鹿な真似はやめておけ」という神からのメッセージなのだろうか? それとも、あくまでも初志を貫くべき?
歩きながら大地は葛藤する。ステージ上の遥と声優Tの華やかさの対比から受けた諸々の感情については、意識して考慮に入れないようにした。
音の鉱石エリアは無人だった。
動くもののない景色を瞳に映しながら、僕に許された選択肢は二つしかないのだと考える。すなわち、犯行に踏み切るか、永久に断念するか。
どちらを選ぶにせよ、後戻りはできないのだと思うと、鼓動は速まった。深呼吸をしようとしたが、逆効果な気もして、短く息を吐いてから移動を開始する。
目的のボックスのドアを開け、テーブルに歩み寄る。聴くという目的に意識が集約されるため、ボックス内から外の気配に注意を傾けることはあまりないが、今日は意識的にそうした。改めて感じた混じりけのない静寂に、後戻りだけではなく、立ち止まることさえも禁じられているのだと悟る。
鉱石を手にとる。そのままポケットに入れてもよかったが、耳の高さまで持ち上げる。
ほどなくして、ソラが『アヴェ・マリア』を歌い始めた。
ああ、という切なげな声が唇からこぼれた。
やはりソラの声は素晴らしい。この声を自分のものにしたい。好きなときに好きなだけ聴けたら、どんなにいいだろう。この声の魅力を理解してあげられる人間は、この世界で僕一人。理解者のもとで末永く過ごしたほうが、鉱石だって幸せなはずだ。この美術館には音の鉱石がたくさんある。一つくらい、盗んだって構うものか。
歌声がやみ、いったん鉱石を元の場所に置く。最終決断のための間を設けたかったからだが、その実、腹はすで決まっていた。
再び鉱石を手にとり、ジーンズの右側のポケットに押し込む。いったん木箱に戻したときのような、ためらいのない、流れるように滑らかな挙動。横断歩道を渡るさいに、青信号ではあるが念のために左右を確認するように、軽く目を走らせることすらなかった。
歩き出してすぐ、ジーンズの生地に押しつけられて、鉱石の硬さが太ももに伝わってくることに気がついた。目で確認すると、盗品を収めている箇所だけが小さく、しかし明らかに不自然に盛り上がっている。大地が見落としていた事態だ。
一瞬心が揺れたが、「この程度であれば誰も気づかないさ」と胸の内で強気に呟き、懸念を精神的に克服した。
体をドアに向けてエリア内を見回す。誰もいない。ドアを潜り、もう一度確認してから歩き出す。恐怖も、不安も、焦りもない。何食わぬ顔で通路を歩き、何食わぬ顔で建物の外に出る。ただそのことだけを考える。
無人の順路をひたすら進むと、出入り口の自動ドアが前方に見えた。左手には受付カウンターがある。さも当たり前のように、職員の女性が持ち場に就いている。
突如として、嵐のような緊張が大地を襲った。
前進している実感が薄れ、なにかにつまずいたわけでもないのに転びそうな気がする。他人の目には、普通に歩行しているように見えているはずだ。しかし、自分で考えているよりも挙動が不自然になっているのではないかという、根拠のない不安を拭えない。急に足がもつれそうで、一歩を踏み出す、ただそれだけの行為にすら恐怖感が伴う。よりにもよって、受付に差しかかった瞬間に派手に転倒してしまう気がしてならない。
しかし、天啓のような気づきが大地を生き返らせた。
鉱石を収めたポケットはジーンズの右側。受付の女性がいるのは彼の左手。すなわち、体が障壁の役割を果たすため、ジーンズの不自然な膨らみは女性の視界には入らない。
大地の口角に微かな笑みが浮かぶ。歩行に安定感が甦った。受付の女性に会釈をする余裕さえ彼は取り戻していた。
自動ドアが左右に開く。皮膚に感じた暖かな外気に口角の微笑が深化する。全身が建物の外に出た。
自動ドアを潜って三歩目で足が止まる。そっと息を吐く。自分がなにをしたのか、これからなにをするべきなのかを思い出すまでに、数秒かかった。それほどまでに強いプレッシャーにさらされていたのだ。
早く帰りたい。美術館から離れたい。盗み出したものと向き合うのは帰宅してからだ。長時間立ち止まっていると怪しまれかねない。厚みのある生地越しに、鉱石の存在を指先で確かめてから歩き出す。
「大地くん」
敷地の門を潜ったところで、呼び止められた。彼の両足は地面に縫いつけられ、世界は凍りついた。
振り向くと、美術館を出てすぐの場所に遥が佇んでいる。
大地の視線が彼女へと注がれたのを合図に、歩み寄ってくる。やや早足で、どこか事務的な足取りだ。
遥の姿を認めた時点で、二人は二十メートルほど離れていたが、険しい顔つきをしているのがありありと分かった。それでいて、そこはかとなく悲しげでもある。
大地は首を九十度ほど捩じった不自然な体勢のまま硬直し、感情が読み取れない響きを聞く。一歩踏み出すごとに拡大される遥の姿ではなく、次第に音量を増していく靴音から、彼女の接近を実感する。
遥の両足が大地の目の前で止まる。臆することなく顔を正視してくる。
「今、あなたのジーンズのポケットには、美術館に展示されていたものが入っている。音の鉱石が一つ。そうだよね?」
彼は人見知り幼児のように首を縦に振る。遥の視線が一瞬大地のジーンズに落ち、すぐに戻ってくる。
「話をしましょう。来て」
遥は彼の手をとり、歩き出した。罪人を刑場へと引き立てる冷酷無比な死刑執行人の足取りではなく、年端のいかない子供や足腰の弱い高齢者を導く者のそれだ。
罪を犯したことが、遥と初めて手を繋ぐきっかけになったのだと思うと、大地は泣きそうになった。
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