2.忘れるのは家族だけではない

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2.忘れるのは家族だけではない

 あの後、俺は父さんと共に医者からの説明を受け、母さんの病状とこれからについて聞くことが出来た。  退院は問題ないものの、記憶以外にも生活にさまざまな不便が出てくるだろうとのことで、施設を頼ったり、酷ければ入院も視野に入れるようにと助言をもらった。  さっきまでの出来事があったために、俺は医者の言うことなど、まだ遠い未来のことのようにも思えてしまっていた。楽観的なのもあの母親譲りだしなと、思いつつ、ひと段落した俺はミナコにも状況を伝えるべく外で電話をかけた。 「そうだったの。お義母さん、無事でよかった……」 「ほんと、息子の目の前で惚気るくらい元気してたよ」 「一応、私も今向かってるから……挨拶だけ私もさせてもらうね」 「うん。ありがとう。待ってる」  ミナコが来ることを父さんにも説明し、俺たちは退院の準備をするべく病室へと戻る。母さんが検査で入院することになり、父さんは大慌てで支度をしたらしい。家にあった荷物を片っ端から詰め込んだような大荷物を見て、俺は揶揄いながら父さんを笑う。 「あはは、テレビのリモコンまで入ってる。慌てすぎでしょ」 「……仕方ないだろう。何が必要かまで考えている余裕がなかったんだ」 「いや、リモコンはいらないでしょ。ここじゃ使えないし」  そのうちにミナコが到着して、四人で昔みたいに談笑をしていた、そのときだった。ふいに母さんが口走った言葉で、ミナコが青ざめる。 「……ところで、あなたたちは一体どちら様かしら?随分大荷物ねえ」  ニコニコと笑みを絶やさず、何気ない会話の途中に挟まれた母さんの言葉は、容易く俺の心臓をひねり上げた。医者から聞いていた説明が、瞬間的に現実味を帯びて眼前に突きつけられる。 「今、ご家族のことを忘れているだけでなく、少し前に話していた内容すら思い出せなくなることもあります。病気が進行すれば、何度も初めまして、と挨拶をすることもあるかもしれません」  きっと、それはもっとよぼよぼで、しわくちゃ婆さんになってからの話だと思っていた。またそうであってほしいと、俺が勝手に思い込んでいただけだった。先ほどまでの会話すら、もう思い出せなくなってしまった母さんを見て、俺たちに何が言えるかもわからず、しんとした時間が過ぎる。 「……ねえ、さっき俺が来たときのことも、もう忘れちゃった?」 「あら、いつの間に来られてたのかしら。ごめんなさいね、気づかなくって」  俺と父さんが改めて家族として自己紹介したことも、その後ミナコが来て挨拶したことも、その欠片すらももう母さんの中には残っていないらしかった。これから先、積み上がっていくものが何もないのかもしれないという不安から、俺はミナコと目を合わせる。  そんな母さんの言葉を気にせず、父さんはまた、母さんの手を取って微笑みかける。 「初めまして。僕は、実はあなたの旦那にしてもらった者でして」 「……そう、なの?あらやだ私ったら、知らない間にこんなにいい男捕まえてたのー?やるじゃなーい!」 「……いや、それさっきやったって!」  目の前で起こることに、さすがに耐えきれなくなって俺は、父さんと一緒に病室の外に出た。これから先、自分の奥さんに何度も何度も初めましてを言わなければならないことが、どれだけ苦痛であるかなんて、俺には想像すらできない。ただきっと、耐えきれないことだけはよくわかった。そんな二人を見たくなくて、俺は父さんに、母さんと家へ帰るのを辞めるよう説得する。 「やめよう、見てて辛いよ。母さんは施設に入ってもらおうよ」 「辛いなら見なくて良い。別に父さんは、辛くなんかないからな」 「そんな嘘つくなって、そんな我慢して、何の意味があるんだよ……」 「何言ってるんだ。自分の奥さんに、何度でもいい男呼ばわりされるんだぞ。悪い気はしないさ」  思いがけない言葉に、俺は目を丸くする。自慢げに笑ってすら見えた父親の顔に、俺は羨ましいやら尊敬やらの気持ちで胸がいっぱいになっていた。  俺はきっと、ミナコに忘れられたら辛くて堪らないし、きっと目を背けてしまうかもしれない。けれど父さんは、何度だって母さんと初めましてを交わして、何度だって母さんの旦那だと名乗るつもりらしい。それが息子としてはどうしようもなく小っ恥ずかしくて、鼻の奥がツンと痛くなった。 「今はよくても、これから先、辛くなるかもよ?」 「その時は、その時だ。あと30年はこのいい男って言葉だけで、父さんはいい気分でいられると思うけどなぁ」  目の奥がじんわり痛いやら、実の親の惚気が恥ずかしいやらで、俺は笑うしかできなかった。  気がつくと扉をそっと開け、ミナコがおずおずとこちらを見ていた。俺はミナコに笑って病室に戻り、父さんのように自己紹介をもう一度することにした。 「初めまして、ではないんですけど!俺、実はあなたの息子なんです!」 「あらぁ、あなた私の息子だったのね。道理で見慣れた、どんくさそうな顔だと思ったわ!」 「え……どんくさそう……?」 「ええ!私そっくりだもの!良いお嫁さん見つけなきゃお先真っ暗ね!」 「お先、真っ暗……」  意気揚々と名乗っただけに、父さんへの対応との温度差にざっくりと胸に刺さるものがある。俺の後ろからそっと顔を出したミナコが、俺と同じように母さんに挨拶をした。 「ええと、初めまして。ミナコと言います。ケンジさんの嫁です」 「あらぁ、あらあらあら!随分素敵なお嬢さんですこと!さすが私の息子、やるじゃないのー!」 「俺の時と反応が全然違うじゃん……なんで俺だけ……」 「聞いてくれる?こちら、実は私の旦那さんなんです。私も今知ったところなんですけどね~!」  カラカラと楽しそうに笑いながら、ミナコのこともまたさっくりと母さんは受け入れてくれた。同居の準備を進めながら、気がつけば俺は、きっとこの母さんと父さんなら何があっても大丈夫なんだろうな、という安心感さえ与えられていた。
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