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1.忘れられた父と息子
父さんから、母さんが倒れたと連絡が入った。
母さんもいい年だし、“そういうこと”がいつあってもおかしくはないと、身構えてはいたつもりだった。それでも実際に眼前へ突きつけられると、どうしようもない焦りと不安で、スマホを握りしめながらどっと嫌な汗が噴き出たのを今でも覚えている。
「検査をしてもらったんだが、どうやら脳の病気らしくてな……」
久しぶりに聞いた父さんの声は、酷く落ちこんでいるように聞こえた。俺も、冷静さを取り繕ったつもりでいたのだが、嫁のミナコに落ち着くよう何度も声をかけられてしまった。詳しくわかったら連絡する、とだけ言われて切られた電話に居ても立っても居られず、俺はミナコに事情を説明し、すぐに両親のいる病院へと向かった。
「すみません、母がこちらに入院したと聞いたのですが……」
「ヤマシタさまですね、少々お待ちください」
病室へと小走りで向かい、上がった息を一呼吸置いてから扉を開く。そこにいたのは、すっかり丸くなった背中をこちらに向け、静かに座っている父さんと、いつの間に、と思うほどすっかり小さくなってしまった母さんだった。
「なんだ、来たのか。あとで連絡すると言っただろう」
「あんな連絡受けて、待ってられるかよ」
父さんの隣にあった丸椅子に座り、はぁっと大きく息を吐く。なんとなく不安になって、母さんと視線を合わせられず、父さんにばかり顔を向けて話をした。ちら、と横目で見た母さんは笑顔を絶やさず、昔のままのようにも見えた。
「なんだ、元気そうじゃん。確かに慌てて来ることもなかったかもなあ」
「ただな、連絡したとおり、フミさんは脳の病気で倒れたみたいでな……」
「あなた、どちら様かしら?」
「……え?」
「……家族のことを、思い出せないみたいなんだ」
ぱち、と世界がスイッチを切って止まってしまったかのような感覚だった。父さんも母さんも、その一瞬を切り取ったみたいに動かなくなって、あとから秒針の音が嫌に耳に響いてきた。父さんに大丈夫か、と声をかけられるまで、俺は息を吸うのも忘れていたらしい。
「大丈夫?ここは病院だから、よかったらお医者さんに見てもらう?」
「か、母さん……冗談だよな?俺のこと、わかるよな?」
「ごめんなさいねえ、どこかで会ったことがあったかしら」
頬に手を当て、母さんはうーんと考え込むような仕草を見せるが、結局俺の名前を呼んでくれることはなかった。ニコニコしつつも父さんの方をちら、と見て、困ったように笑うばかりだった。
俺は次の言葉が出てこなくて、口を開けたまま何も言えなかった。あなたの息子のケンジです、と名乗ったところで、それも母さんを困らせるのは目に見えている。かといって、初めましてと挨拶するのもどうにもはばかられた。眉間に皺を寄せ、俯き悩んでいると、父さんが母さんの手を取ってこう声をかけた。
「ごめんなさいね。あなたのことも、もう少しで思い出せるかも、しれないんだけど」
「いいんですよ。……実は僕、あなたの旦那さんなんです」
「ちょっと、父さん!そんなこと言ったって……!」
「旦那……?」
穏やかににこにこと笑みを浮かべていた母さんが、みるみるうちに目を丸くしてしまう。呆けたような顔で父さんを見つめる姿に、俺は血の気の引く思いがした。
訳も分からないまま、いきなり見知らぬ男に旦那だと言われても、母さんが悲しむだけだ。そう思ってなんとか取り繕おうとしたのだが、母さんの反応は全く予想だにしないものだった。
「……あらやだ、私ったら知らない間にこんないい男を捕まえてたのー?やるじゃなーい、さすが私ー!」
「ええ……?」
てっきり落ちこんでしまったのかと思いきや、母さんはカラカラと心底楽しそうに笑って、父さんの手を握り返した。そういえば昔から、やたらとポジティブな人だとは思っていたが、こんなときまでそんな風に笑えるのかと拍子抜けしてしまう。
父さんも父さんで、母さんが病気とあってはさぞかし落ちこんでいただろうと思っていたのに、母さんにご機嫌に手を握り返され、頬を少し赤らめながら嬉しそうにする始末だった。
「い、いやいや、何やってんの父さん」
「何って、大事な話だろう?」
「あなたもあなたよ、そう……私の息子だったのね。道理で見慣れた顔だと思ったわ」
「見慣れ……確かに母さん似とはよく言われてたけど……じゃなくて。俺はてっきり、父さんが落ち込んでやしないかって慌てて来たんだけど!?」
「なんで父さんが落ち込むんだ。父さんはいつもこんな感じだろう」
言われてみれば父さんは寡黙な人で、たまに聞く声もこんな調子だったような気がしてくる。そもそも昔からあまり声を出さない人だったから、落ち込んでいるかなんて声で判断できるはずもなかった。
そう思い直し、頭を抱える俺をよそに、記憶がないだとか脳の病気だとか、まるでそんな話は嘘だったかのように二人は手を取り合って笑っていた。その姿に俺は、本当にここに慌てて来る必要はなかったようだと、ため息をつきながらもようやく安堵に肩の荷が下りた心地だった。
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