満ちるを剪(つ)む

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 縮んでいたジャケットは、それがまるで夢だったかのように、すんなりと俺のことを抱き締めて温める。  心にじんわりと椛のような赤が差して柔らかな光が灯るかのようである。  俺はこんなに感傷的だったのか。  痩せたおかげか無駄なストレスはなく、いつも以上に頭が冴えている。その聡明な頭脳をもってして、あの居酒屋へ行こうと決めた。  外への扉がいつもより重い。痩せた体はいつもより軽く、小鹿のように非力だ。  なぜか足も震えてきた。  別に怖いんじゃないぞ。誘惑に負けてリバウンドすることなんか怖くない。  居酒屋の前にたどり着くまでそんな調子でいたものだから、俺はすっかり疲弊し、今日くらいは何か精のつくものを食べようと決めて、摩季ちゃんの元へ続く引き戸を開く。 「いらっしゃいませー」  その声が、その内装が、飽きるほど知っている香りと音が、何もかも懐かしく感じる。  帰ってきたのだ、愛する人のもとへ。  今の俺はまさしく熟しきった果実。過酷なダイエットに耐え舞い戻ってきた、まさしく折れた大樹に芽吹いた新芽。  不可能はない。そう思った。 「や、摩季ちゃん。久しいね」 「えーっと、えー……一名様ですね。そちらご予約の席となってまして……」  申し訳なさそうな顔を見た瞬間、芽吹いたばかりの双葉は跡形もなく風に散り、頭の中には、三ヵ月間の燃えるようなダイエットの思い出が溢れだした。 「実は……それ俺なんや」と、なんとか絞りだしてから、摩季ちゃんが「えー⁉ 全然分からんかったー!」と返すまで一秒だって空いていないだろうが、俺にとって、気付かれなかったというその事実は一年よりはるかに長い孤独を感じさせた。 「頑張ったんやねぇ。カワちゃんどうしたん? なんで痩せてもうたん?」 「あ、や、え、わ……ワァ……!」  しどろもどろになりながら、なんとか分かったのは、こんな風にまともに話すらできず、信じられない程に性悪でデブな自分こそ、摩季ちゃんにとっての俺なんだということ。  俺はよく来るデブに過ぎず、あの日いきなりキレて以降来なくなった常連。その程度でしかなかった。思えば連絡先は知らないし、俺に向けたあの笑顔は全部営業スマイルか。  でも事実として、彼女は俺が痩せたことに「頑張った」と理解を示してくれた。きっと彼女は俺に期待していたんだ。曇って見えなくなったお月様もなんかそう言ってる気がする。うん、きっとそうに違いない。  彼女は痩せたことに驚いただけで、本当は俺が来たと気付いていたに決まっているし、あまりに変わった俺の格好良さに見惚れて言葉を失ってしまっただけだ。  それだけこのジャケットは俺を引き立たせてくれるのだろう。生まれて初めて兄貴に感謝した。  つまり、俺が悪かったのは痩せた理由を上手く話せなかったからだ。  練習しなければならない。そう決めてからの行動は早く、帰宅するなり酔いが回った頭で片っ端からバラエティ番組を見た。  まずは学ぶ。喋り方とその内容。使えそうなものはそのままパクって――いや、リスペクトしてしまおう。  そういえば、職場でも自宅でもラジオを聴いている。いつもとは違って学ぶ姿勢で聴いてみるのもいいかもしれない。  翌日になって、出社した時、その効果は早速現れた。 「おはよう! 今日も一日頑張るか! やる気、マンマンデー! って感じでな!」 「あ……おはようございます……」  滑った。  めちゃくちゃ滑った。  同僚は気まずそうに傍を駆け抜けていく。  この方法は良くなかったかもしれない。  しばらくして、皆がそろった時に気付いた。朝礼を過ぎても誰も話しかけてくれない。それはそうかと思う。ここは仕事場なのだ。真面目に仕事をする以上、誰も自分から話し掛けては来ない。  つまり、質問なりなんなりで話し掛けてきた時が勝負だ。  そんなこんなで誰にも話し掛けられることなく、昼休みになった。 「あかん……あかんでしかし。誰も話し掛けてくれへん……俺そんなに怖いかな」  調剤室で一人昼の準備を済ませていると、扉の向こうに人の気配を感じる。  どうやら同僚が数人俺のことを見ているらしい。  話しかけてこない原因を考えて、ふと思い浮かぶ。  そういえば、あの時の謝罪がまだだった。 「悪かった」 「え」 「あの時は悪かった! でも意図的に下剤を混ぜたわけやない! というか下剤を作りたかったわけでもない! 俺は楽して痩せたかったんや!」  空気が和らいだ。そして、同僚の一人が話しかけてくる。 「分かります、楽して痩せたいですよね」  今だ! ここしかない! ここで話を膨らませずいつやるんだ! 「せやねん! しかも全然痩せへんくて! 皆あの後痩せれたん⁉」  思えば、あの時に種は蒔かれたのだろう。それがようやく花を開いて実をつけて、熟しきったのが今なんだ。  この後の時間はあっという間だった。  まるで、最近の秋のように短く感じた。気が付いたら終業の時間だ。  話が弾むと、こんなに職場は楽しいのか。 「なんや……俺、話せるやん」  自信がついた。  俺は来るべきその日まで、同じように、話す練習を続けた。  十一月の三日。今日は金曜日だ。  同僚からの誘いを断って、俺は居酒屋へ行くことに決めた。  着ていくのはもちろんあのジャケットだ。  高揚でもしているのか、全然寒くない。十一月の頭だというのに紅葉も全然進んでない。きっとまだまだ暖かい日は続くだろう。俺と摩季ちゃんのこれからのように。  希望に満ち満ちて戸を引いた。  席に案内されてからしばらく飲む。  今は待つしかない。摩季ちゃんが忙しそうに調理しているのを見つめながら、機が熟すのを待つ。  今日は客の引きが早い。あのデブのおっさんもいない。  数人の客を見送った後、摩季ちゃんが話し掛けてきた。 「……なんか飲む? グラス空いてますけど」 「ああ、そうやね」  狙っていた瞬間が来た。  秋鮭を狙う熊のように、その一瞬を逃がさない。 「摩季ちゃん、今日は君と飲みたい気分や。この後一杯どう?」 「一杯もろてええの?」 「違うやん、そうやないやん、これから一緒に飲もうって話やん」 「いやや」 「なんで⁉ お、俺のこと嫌いなんか⁉」  摩季ちゃんは心底不思議そうな顔をする。 「いや、好きとか嫌いとかやないよ、カワちゃんはお客さんやし。それに私予定あるし」  摩季ちゃんは無慈悲だ。  でも、ここで諦めるわけにはいかない。用意していたプランBだ。 「じゃあちょっと話を聞いてくれ。俺の主張を見ててくれ!」 「ラップでも始めたん?」 「俺が痩せられたんわ摩季ちゃん、君がここにいて、いつも俺に微笑んでくれたからなんや! 君の晴れ晴れとした笑顔に何度救われたか分からへん! 酔った時ですら、紅葉した椛みたいに綺麗やもん! 君のことを愛してんねん! めっちゃすっきゃねん!」  どうだろう、プロの歌手顔負けのこの告白。一週間は考えた。きっとこれで堕ちない女はいない。  さぁ摩季ちゃん、めくるめく紅葉スポット巡りを共に―― 「ウチァな、デブが好きやねん」 「え」 「なんでお前痩せとんねん。あとなんやその胸のやつ」  摩季ちゃんの目つきが突然厳しいものに変わり、俺の胸ポケットを指さした。 「どういうつもりやねん『(ただし)(おとこ)』て。お前、ウチへの対応ことごとく間違えとるやんけ。恥ずかしいと思えよ」 「これってそう読むんか⁉」 「そんなことも知らん男とは付き合えん。というかまず彼氏おる」  さっきまで晴れ渡っていた気分は急に土砂降りになった。秋雨でもこんなゲリラ豪雨みたいにはならないと思う。 「あと今日大事な日ィやし! 早上がりもろとるし! 帰りの邪魔せんといてくれるか!!」  どういうことだ、何も分からない。あまりにも急なことで――困惑していると、外に停まった車から一人のおっさんが出てきた。 「摩季ちゃんお待たせ! 俺やで!」  俺はそのおっさんを知っていた。かつて、俺のことをデブと罵ってきたもう一人の常連だ。  摩季ちゃんの話しぶりから考えて、いやそんなまさか、そんなはずは。 「店長! 彼氏来たんで帰ります! 今日はありがとうございました! 明日もよろしくお願いします!」 「今日は付き合って一周年記念日やで~摩季ちゃん! 二人で楽しもうな!」 「うん! お願いな、ウッちゃん!」  扉からの冷たい風に吹かれながら、二人は店を出ていった。  嗚呼、なんてことだ。 「まぁ……とりあえず、座りぃや」  優しげな視線で見つめる店長に促されるまま、なんとか注文を絞り出す。 「熱燗一つ」  なんだかひどく冷える気がする。腹の底から温まりたい気分だ。 「おや珍しい」  普段はしない注文を、普段はしない格好でする。まるで生まれ変わったようだけど、本当は、事実が明らかになっただけだ。そうまるで、葉の散った枝が、その姿を露わにしたように。  ああ、そういえば。 「今日は……冷えますね……」 「そりゃ、暦の上じゃ、もう冬やからねぇ」  今日は十一月の三日。暦の上では冬だ。  俺の心に、冷たい木枯らしが吹いた。  やけ酒にキツい熱燗をやりながら、身体もすっかり暖まり、だんだんと意識が朦朧としてきた。  泥酔状態だ。まずい。仕事に差し支える。  たしか、内ポケットに酔い覚ましの薬を忍ばせていたはずだ。自分で調合したから効果はお墨付き。すぐさま酔いは醒めるはず。  水と一緒に飲んで、酔いが醒めるのを待つ。  瓶には、いつか職場で惨状を巻き起こした薬のレシピと同じものが貼られていて、蓋には「キケン」と書いてあった。 「どうした? 兄ちゃん?」 「店長……俺の……暦も……冬……みたいや……」  俺の体にも冷たい木枯らしが吹き荒れた。
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