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「いらっしゃいませ〜」
今日も至福のひとときを楽しむべく、居酒屋に来た。
ここには毎晩通い詰めている。店員の幸原摩季と会える事がささやかな楽しみだ。世間では食欲の秋などと言われているが、俺にとって、今は居酒屋摩季の秋である。
俺は調薬師の細川真貴。退勤時間を迎えるや否や居酒屋に即直行。そんな毎日を送っている。この一時は秋に感じる寂しさに似合わず、ハイテンションだ。
席に着いてから、もう一人見慣れない客が、摩季ちゃんと親しげに談笑していることに気が付いた。俺とは真逆な性格の、見るからにデブなおっさんだ。
気分はすっかり冷め、夏から秋に変わったかのようだ。
側で少しやり取りを見ただけだが、なんとなく苦手だ。
モヤモヤを抱えながら注文する。程なくして、摩季ちゃんがオーダー通り無限キャベツを作り、ラー油をかけ出した。しばらく様子を見ているが、止まる気配がない。ずっとかけ続けている。
まるで秋の落ち葉のような色になってきて、見る見るうちにキャベツが紅葉していく。
「おいおい、そろそろ止めてくれよ」
そう声をかける。
「もっと入れてくれな困るがな」
しかし、何故かデブのおっさんが割り込んできた。
摩季ちゃんは俺の静止には見向きもせず、淡々と作業を続けた。
出来上がりだ……。
「お待たせしました〜」
そう言っておっさんに差し出した。そう、それはおっさんの分だった。
一気に居づらくなり、俺は店を立ち去ろうとする。鶏南蛮を10人前注文した。ここの鶏南蛮は伝統の秘伝のタレがかかっていて美味い。職場への差し入れにしようと考えたのだ。
「こちらでお召し上がりですか?」
俺の意思に反して、摩季ちゃんは、秋の満月のような笑みで聞いてきた。内心、そんなに食えるか、と思いつつ。
「実は……。小食なんや」
そうカッコつけて答える。
するとおっさんが横から茶々を入れてきた。
「お前デブやん!」
「なんやとデブ!!」
デブと言われるのは死ぬほど嫌いである。
細身の人に言われるならまだ我慢できる、そうではないおっさんに言われるのとはまたわけが違う。
「お前に言われたないっ!」
かぼちゃが破裂しそうなほどの勢いで啖呵を切り、店を後にした。
しかめっ面で前を向き、勢いよく歩き出す。半ば走っているようなものだ。早く歩いてるせいか、肌寒さは感じない。むしろ、少し暑いぐらいだ。
周りは、デブから細身の人まで多種多様だ。皆汗はかいていない。服を濡らしているのは自分ぐらいだ。
(なんで俺だけ汗かいてんねん……)
不思議に思いながら家に戻った。
疑問を解消する為、匿名掲示板を閲覧する。いくつか質問をぶつけるが、ここでも何故かデブ呼ばわりされる羽目になった。
(なんで皆俺をデブ扱いするんや!? こんなにイケてるのに!?)
おっさん以外からもデブ呼ばわりされ、自分が自分でなくなるような感覚に陥る。そうして、不安になり、部屋の中を意味もなく物色しだす。
洋服ダンスに仕舞われたままになっていたジャケットが目に入った。
兄から貰ったオーダーメイドのジャケットだ。
(あの縮んでしもたジャケットか……)そういえばしばらく着ていない。(縮んだ……?)着ていないのに?(もしかして……)ありえないことだが、まさか。(俺がデカなったんか⁉)
ジャケットをじっと見る。明らかにボタンがとめられない。秋の満月のような腹が邪魔で、ボタンが届かない。
素肌にジャケットの色を直接塗って、いかにもちゃんと着れているように見せようとした。このアイデアはボツ。
同じようなジャケットを着て誤魔化すことも考えた。だが――
1つだけ決定的な問題がある。
オーダージャケットの胸ポケットには、極めて目立つ位置に刺繍が入れられているのだ。
"by 真き男"と。
"細川真貴男"。兄の名前だ。
刺繍を入れるなら自分の名前ぐらいちゃんと漢字で書け。というか胸ポケットに刺繍を入れる奴がどこにいる。しかも、生地とは明らかに違う色で。目立って仕方がない。
実物のオーダージャケットを着ないと俺のカッコよさが際立たないのでこれもボツ。厄介な証拠を残してくれたものだ。
途方にくれる。何も思いつかない。
それにしても、俺はいつの間に太ったんだろう。
今更ながらそんな疑問が浮かぶ。鏡の前に立つと、太った自分自身の姿が映っていた。
(何!? これが俺か!? こんなんで摩季ちゃんに告るんは無理やんけ⁉)
その事実に恐れを抱くと、次第に息が荒くなっていく。鏡はだんだん曇っていった。
(このままやったらマズい……どないしよ⁉)
摩季ちゃんに対する希望が揺らぐ。俺の計画では、そろそろOKをもらえる程度には好かれているはずだったのに。
(なんかええ方法はないんか……。せや! 痩せる薬作ったろ! 俺は天才の調薬師やで!)
いつかの秋のドライブの最中に、ふと見上げた先にあった追い越し禁止を見た時に浮かんだカッコいい言い回し。凄くお気に入りの台詞だ。
早速、自前の調合レシピを用いて、1ヶ月で痩せる薬の調合を画策する。やる気が湧き上がってきた。秋風が吹き荒れるようだ。
調合するならやっぱり職場が最適だろう。時間帯は早朝がいい。その時間なら誰もいないはずだ。材料はあれとあれでいいか――小学生の時、頑固ジジイの家へ窓を割りに行った時を思い出す。いたずらを企むようなドキドキを胸に、俺は眠りについた。
翌日。痩せ薬はそれほど時間をかけることなく調合できた。我ながら素晴らしい出来だ。気分は秋晴れのよう。
そろそろ同僚が出社してくる。差し入れを済ませ、調合した薬を飲んだ。しばらくすると、お腹が途端に緩くなって、慌てて御手洗に駆け込んだ。これで痩せられる。そんな希望を抱きながら。
そこには惨状が広がっていた。
職場の同僚複数人が列を成している。慌てて列の1番後ろに並んだが、まるで行楽シーズンの行列のようだ。動きが緩慢すぎる。耐えられない。意識が朦朧としてきた。明らかに限界が近い。側にある洗面台に覆い被さった。
微かに個室のドアが開く。行けると思った次の瞬間、誰かが後ろから走って駆け込んだ。希望の扉は閉ざされた。ドアをバタンと閉めたのである。
この苦しみから解放されると思ったのに――絶望の海に叩きつけられた。
ドアに近づこうとするが脚が思うように動かない。一言文句を言いたいのに、よちよちとしか歩けない。ゆっくりドアに近づいた瞬間、入り口付近から声がした。
「細川さん! 調剤室の鍵を開けて下さい!」
「その前にここの鍵を開けてくれ!」
思わず出た一言だった。
なんとか両方の鍵を開けて済ませ、体重計に乗ったが、ミシッ、バキッと音を立てて動かなくなった。
(全然痩せてへんやん……)
壊れた体重計を見て、ひたすら落ち込んだ。
結果。
作った薬はただの下剤だった。
余談だが、よく調合現場を見ると下剤の素が作業机一帯に拡がっていた。確か、そこには差し入れの品も置いてあったはずだ。状況からして、差し入れに下剤が混入した可能性が極めて高い。これでは、薬を故意に混ぜたと思われても無理はないだろう。
それから1ヶ月薬を飲み続けたが、その度に体重計は鈍い音を立てて動かなくなった。
(やっぱり楽して痩せるのは無理なんか……?)
1ヶ月分の体重計代がかさむ虚しさ。それでも痩せない虚しさ。絶望。薬の効果なし。
期待は枯葉のように虚しく散っていった。
痩せるのに手っ取り早い方法はないと思い知る。薬に頼らずダイエットをするしかないと悟った。
今度こそ王道の方法を模索する。空虚感に抗うように、そう決意した。
とはいえ、人生で1度も地味な方法で成功した事がない俺にとっては、けっして容易な事ではない。食欲の秋と言って爆食いしていたから尚更である。
心の木枯らしは未だに吹いていた。
ある日、自宅で動画を漁っていると、とあるダイエットインフルエンサーの情報が流れてきた。
(こんなデブ体型でダイエットインフルエンサーやと?)
あからさまなカボチャ腹だ。お世辞にも説得力があるとは言えない。
痩せていない奴から痩せる方法を教えられても、説得力は皆無だろう。
だが、この方法は他とは一線を画していた。
やり方は至って単純。太る物を全て捨ててしまう。そして、睡眠時間を今まで以上に確保する。
たったこれだけ。
まさに目から鱗。確かに原因物質がなければ太らない。当たり前の事ほど忘れがちだ。次に睡眠時間。これが短いと食欲が増すらしい。意識していなかった。いつも異常な程に腹が減っているのはこれのせいか。
(確かに試した事ない……)とはいえ。(言ってる事も間違ってない気がする……。)とはいえ、だ。(言ってる本人が痩せてない。……ホンマに効果あるんか?)
思わず疑ったが、結果が出ない以上、この手法を試すしかなかった。
最初の1ヶ月は実感がなかったが、2ヶ月が経とうとした頃から、徐々に成果が出てきた。満月型の腹が見事に凹み、スラッとした理想の体型になっていった。
痩せてみれば意外と簡単だった。今までの苦労はなんだったのだろう。まるで過ぎ去る秋の虚しさだ。同時に希望も出てきた。これからの季節を迎えるに相応しいと、胸を張って言える。
今なら例のジャケットを着れる。摩季ちゃんに告白だってできる。拾ってきた秋の枯れ葉を折りたたみ、胸ポケットに被せ、その服の袖に腕を通した。
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