そのま白き体、月明かりに染まりて

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「久しぶりに帰ってきたと思ったら、男ができた別れた子供ができた?だから金をくれ?なんだあいつの言ってることは」 紅白の歌手の歌が途切れると恨みつらみ節がつらつらと口をつく。 音楽と音楽の合間に雑言を垂れていく。 「3年間、どこで何をしてるとも連絡もしないで、突然現れて 子供を産むから金をくれ、育てるには金がいる? 何でそんな事を俺に聞かせるんだ」 父はこういう人だった。面と向かっては怒らない、目を見てものは云わない、そういう人だった。 25年間、私はこの人にちゃんと怒られた記憶がない。 小学校の頃、運動の苦手だった私は運動会の朝になると決まってお腹が痛くなって学校を休んだ。それは仮病でもなんでもなく事実そうだったんだけど。 そのせいで毎年運動会の朝、結局なじられ怒鳴られたのは母だった。 なんで行かせない、何の為の母親だ。 家を守るのは母親の務め躾けも教育も母親がするもの。 そういう考えの人だった。 大学も大阪の大学に勝手に決めてしまって、受かってからの事後報告を手をついて謝っても、私には背を向けて何も言わず、その頃飼っていた柴犬のチロをあやしながら芝生の庭で半日中、ひとりあーだこうだと繰り言を垂れていた。 そういう父だった。 「素性もわからない男と乳繰り合って妊娠させられて、どの面下げて助けてくれなんて言えるんだ」 そんな終わらない父の繰り言に母の手が止まる。 「みやび。。。」 その左手がそっと私の手に伸びる。まだ五十路を迎えたばかりなのにしもやけが絶えないしわがれたその感触に言いようもない暖かさを感じる。 胸が詰まった。やっぱり来てはだめだったんだ。この人にまた余計なものを背負わせる羽目になるから。 「生まれてくる子が可愛そうだろ、そんなろくでもない奴の子なら...」 「やめてください、もういいでしょ!!」 聞いた事もないような低くて怖い母の声。 聞こえてくるのはふつふつと煮えたぎる鍋の音と母のいつもより荒い息遣い。そして居間から聞こえる松田聖子とクリスティハートの甘い調べ。 周りに漂うお醤油と味醂の匂いに息が詰まりそうになった。 「そんなろくでもない奴の子なら・・・」 「やめてって言ってるでしょ!!」 「そんなろくでもない奴の子供なんかおろせばいい」 心臓がぎゅっと縮まって身体中の脈が止まったような気がした。 手先が急に冷えてきて体が震え出して、そのあと止まっていた心臓がドクンドクンと音を立てて頭に逆流する。 「みやび…」 「もうあかんわ、お母ちゃん」 「だめだよ、あんたは……」 その声が終わらない内に私はキッチンのテーブルを両手で思いっきり叩きつけていた。 「いつもそうなんやから! なんで向き合ってくれへんのん! 顔見て、目見て、 なんでアホなやつやと罵ってくれへんのん!! なんで...」 テーブル一杯に散らばったおせち料理に涙がポトポトポトポトと音を立てて落ちていく。 それでも父の肩は動かなかった。 テレビを見つめるその背中を見ながら私の中の何かが崩れていくのが分かった。 テレビから聞こえてくる赤いスイトピー。 松田聖子のキラキラの衣装が涙でかすんで見えた。 「みやび!!・・・みや・・!」 名前のあとはもう聞こえなかった。 母の叫びを背中で聞きながら私はリュックも持たず、玄関の下駄箱の上に置いていたヘルメットを無意識のうちに手に取り、外へと駆け出していた。
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