万津吾(マツゴ)は渋る。

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 今夜の現場を眺めて、マツゴはため息をつく。 「さっさとしろ」  ケンスケが急かす。マツゴは今しかないと意を決して振り返り、おずおずと話しかけた。 「センパイ、やっぱりやめよう、最後の晩だよ……」  ケンスケがぎろりとにらむ。 「何だと」  マツゴはひるんだが、何とか言葉をついだ。 「いくらクラウンさんの指示でも、考え直した方が……」  頭に右手をやったケンスケは、根元の染め色が落ちたぼさぼさの金髪をちぎれるくらいにかきむしる。  ほんの少しの間、はりつめた静けさが続く。  だが、しまいにはケンスケの目力に気押されてマツゴが折れ、ゴム製の滑り止めが付いた軍手をはめて目出し帽を被ると、結束バンドを黒いジャケットのポケットに入れた。  他には工具も凶器も持って行かない。必要なら現場で調達する。クラウンからの毎回の指示だ。 「あんたはすぐ車に乗って逃げられるように、車に残ってくれ」  ケンスケがサトウサンに指示する。  と、サトウサンは、おもむろにダッシュボードの中から文庫本を取り出した。 「本を読むのか、灯りをつけたら目立つぞ」  ケンスケがきりきりと目をつり上げてにらむ。  いや……突っ込むべきは、よりによって今、読書を始めるってことだ。マツゴは心の中で突っ込む。  一体何を読む気だ?  マツゴは表紙をちらりとのぞく。  艶々した白いカバーには、緑の長方形の枠に黒い文字で「右大臣……」と印刷されている。何やら難しい歴史ものか文学作品のようだ。 「照明は要らない」  暗闇の中でサトウサンは本を開く。  ケンスケはそれ以上何か言うのを諦めたのか、背を向けてドアを開いた。マツゴも続いて車の外に出る。  道の両側の家屋は、ほとんどが垣根が囲む前庭のある瓦葺の農家だ。  表には農機具や小さなトラクターが置いてある。  すべての家が真っ暗で、住人の気配が感じられない。 「逃げるあてなんてないのに」  マツゴはつぶやく。
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