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犬ならなぁ。犬なら許せるのになあ。
そう思った時には、もう遅かった。鼻づらにシワを寄せてキレ散らかしていた生活指導の宮村が、みるみるうちに垂れ耳のパグ犬へと変貌を遂げる。
「うひょー、やっべー……」
篠森奈子、入学式ぶりのやらかしである。もう二度とイラついて人を犬に変えたりなどしませんと反省文を書いたりもしたのだが、ついやってしまった。
「やっ、でもコレはいつまでもガミガミ怒る宮村センセーが悪いですねえ……」
元・宮村、現・パグ犬は急激な体形の変化に目を回している。
奈子の能力は、その人の眼鏡や服に至るまでをまとめて犬化させる。パグ犬のベージュの体毛が、黒いジャージを羽織ったようにまだらになっているのはそのためだ。
パグ犬はデフォルト四つん這いから、どうにかヒト的二足歩行に戻ろうとがんばっている。
まあこうなってしまったからには仕方ない。
狭い指導室の床でじたばたするパグ犬を横目に、奈子は肩にかかる黒髪をふぁさっとかきあげた。椅子に悠々と座ったまま、リップクリームで唇を潤す。
たとえ大粒ラメ入りで、体温変化に合わせて色がピンク・レッド・パープルの三段階に変化する冬季限定発売スペシャルアイテムだったとしても、商品名がリップクリームなのだからリップクリームだ。奈子は校則を遵守しているし、赴任してきたばかりの体育教師にとやかく言われる筋合いはない。
そのうちパグ犬は、奈子に向かって吠え出した。
『ふざけるな。元に戻せ。教師をなんだと思っているんだ』……人間の言葉に翻訳するなら、そんなところだろうか?
「うるさい」
奈子は赤い唇をゆがめて笑った。
「センセーさぁ、いまの自分の立場わかってる? どう足掻いても今のおたくは、ちっちゃな可愛いワンちゃんなんだよ。あたしの機嫌を損ねたら元の姿に戻れないってわからないわけ?」
パグ犬はとたんに大人しくなった。低い鼻を、いかにも気に入らなさそうに鳴らしたが、吠えることはなく奈子を見上げている。
「んふふ、よしよし、いい子いい子……」
能力のせいかは不明だが、奈子は犬好きだ。元がうざったい宮村だとわかっていても、小型犬と化した姿は愛らしく見える。
そしてパグ犬は自分の本能に抗えない。奈子が手を前に出すと反射的にふんふんと匂いを嗅ぎ、顔まわりを撫でられるとこそばゆそうに首をかしげる。そのうえ顎の裏をくすぐられれば、もうおしまいだ。全身をドリルのようにふるわせて、奈子の手の平に頭から突っ込んで来ようとする。
「はい、よし。……お手っ」
ピタッとパグ犬の動きが止まったのは、人間的な理性がまだ残っているからだろう。奈子は焦らずに待った。
「難しい? まだ難しいかなあ、できたらご褒美あげるんだけどなー。どうする? まだおバカなワンちゃんのままがいい?」
この脅し文句に、パグ犬は光の速さで屈した。シュッと奈子の手に小さな手を乗せてくれる。奈子は続けざまにテンポよく命令した。
「よし。おかわりっ。おすわりっ。もう一回いくよ! お手っ。おかわりっ。お座りっ。伏せ! ……はぁーい、よくできましたー」
床にだらんと腹ばいになったパグの背中を、奈子はパン生地を広げるように手のひらで大きく撫でさすった。
犬はけっこう背筋や首回りが凝るのだ。首の後ろを軽く掴んでひっぱるようにすると緊張がほぐれる。
パグ犬も気持ちいいらしく、への字口から舌を覗かせて全身を弛緩させていた。
このままずっと犬のままでいてくれればいいのにな、と奈子は思った。
奈子の知る限り、犬はone of the most wonderful animal……この世でもっとも素晴らしい生き物のうちの一つである。
少なくとも人間よりは、ずっとよかった。
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