いぬつかい

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 奈子の能力が開花したのは、小学校に上がる直前だった。  両親と電車に乗っていた時、何かのはずみでイラッとしてしまったのだ。  理由はよく覚えていない。足がだるくて座れなかったせいかもしれないし、誰かに足を踏まれたのかも。  それまで両親に癇癪を爆発させたり、なんとなく気分が悪くてぐずったことはいくらでもあった。  だが、人に対してイラッとする。これは生まれて初めての感覚だった。  うす暗がりで、急に目の前にパッと火花が上がったみたいだった。それが、自分が今いるところがこんなに暗いんだ、と気づかされるほどの明るさなのだ。  次の瞬間、奈子の目の前にいた乗客が犬になった。犬種はよく覚えている。白と黒のぶちがはっきりした、きれいなダルメシアンだった。  車両は大パニックに陥った。成犬のダルメシアンは体高六〇センチと大きいうえ、かなり筋肉質なのだ。  力強く奈子を抱きあげた母は、ほかの乗客と同じく車両を移ろうとした。奈子は母の肩越しにダルメシアンを見た。低いうなり声をあげるダルメシアンは、とても悲しげだった。  次の停車駅で、どっと人が下りた。だが、人波は駅員に止められたようだ。警察が到着して事情聴取が始まった時には、ダルメシアンはもう元の人の姿に戻っていたという。  奈子はその日、続けざまに二人の人を犬に変えた。一人は柴犬で、もう一人はコッカスパニエルだった。  被害者から一転、加害者となってしまった奈子を、母は抱いて離さなかった。 『そんなはずありません。この子は普通です。普通の子なんです』  しどろもどろになりながら娘を庇う母に機動隊が同情したかどうかはわからないが、ともかく奈子は両親から引き離されずに済んだ。  きっと犬に変えられた三人ともが、五分から二十分という比較的短時間で人間に戻れたからだろう。  奈子は自宅待機の後、週に何度か病院へ通うことになった。カウンセリングを受け、脳波を計測し、医師と研究者の立ち合いのもと何度か人間を犬に変えてみせた。  両親の疑問は尽きなかった。 『いったい、なぜこんなトンチキな能力が娘に芽生えてしまったのでしょう』 『そりゃ奈子は犬が好きですよ。お出かけの時には犬のシール絵本を持ち歩いています。公園では、なじみの飼い主さんによく犬を撫でさせてもらっています。でも、犬を飼いたいなんて言ったことはないのに』  誰も、その謎を解き明かすことはできなかった。  だが医師は奈子の能力の安全性に太鼓判を押した。 『犬に変えられた人間は短くて十分、長くても三時間ほどで人間に戻っています。そして驚くべきことに、犬になる前なんらかの疾病を抱えていた人の八割に、その症状の改善が見られるのです。この能力は人を癒すギフトです』  奈子の扱いに頭を悩ませていた両親にとって、医師の言葉は天啓のように響いたに違いない。  はじめて受けた取材は地元テレビ局のインタビューだった。小学生になっていた奈子は、スタジオに招かれADの一人をチワワに変えた。  次が無料動画配信サービスのバラエティ枠で、そこで『いぬつかいナコ』というコーナーを受け持った。  子どもタレントとなった奈子の人気はうなぎのぼりだった。話題が話題を呼び、ノンフィクション映画の題材となり、ニュース番組のコメンテーターをやり、ついでに芸人とトリオと組んで歌手デビューを果たした。  そこで、奈子の経歴はブツンととぎれる。  業界から干された奈子が、やっと学校へ通えるようになったのは、ほんの三年前、中学二年生の時だ。それからずっと、のんきなギャルとしてスクールライフを謳歌しているというわけだった。
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