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奈子はパグ犬を正しく抱いて進路指導室を出た。
片手を体側から腹部へくぐらせ、もう片方の手を後ろ脚の間から顎へ通す。犬の胸を支えるようにして抱き上げると体に密着して安定する。
犬の扱いは、テレビの仕事をしている時に身につけた。子どもタレントをしていて良かったことと言えば、それくらいだ。
パグ犬は『騙したな!』と言わんばかりに暴れようとしたが、もう奈子の腕からは逃れられなかった。
「だーめ」
奈子は、甘やかすように優しく言った。
「逃げたりしてほかの先生に見つかったら、大変だよ。ワンちゃんは賢いから、飼い主のいない犬が最後にどうなっちゃうか知ってるよね……?」
もちろん知っているようだ。ぬいぐるみのようになってしまったパグ犬を抱いて、奈子はゆっくりと階段を上った。
すでに放課後だ。空き教室では吹奏楽部がパート練習に励んでおり、窓の外からは運動部が気合を上げる声が聞こえる。
「春香ぁ、いるー?」
「はーい」
空き教室に顔を入れて呼ぶと、トランペットパートの春香が返事をした。
テレビに出ていたうえ入学式でもやらかした奈子は、悪い意味で有名人だ。
他の部員たちは、小さく悲鳴を上げて教室のすみに逃げたが、同級生の春香は長いみつあみを揺らして奈子のほうへ来た。
「どうしたの、奈子ちゃん」
「えへへ、見てよ~、可愛くない?」
「すごい! またやっちゃったの? 誰よ、これぇ」
「見てわかるっしょ、ほら、ジャージの袖が白チョークで汚れてる再現、エグくない? 宮村センセーだよ」
「あっはは! ホントだ、先生、かわいそぉ~」
頭の上を飛び交う甲高い声に、パグ犬は『もう何も見たくない』とばかりにぎゅっと目をとじ、耳も後ろにひいている。
「パグ犬って意外と抜け毛やばいんだよ。いちおうお手入れしてからリカちゃんとこに連れてこうと思うんだ。ちょっと付き合ってよ。ね」
「うーん、ちょっと待っててくれる?」
春香は他の部員に確認を取り、すぐ戻ってきた。
「行って平気だって。どこでやろうか。毛が落ちるなら外の方がいい?」
「寒かったら犬がかわいそうじゃん。私もやだ」
「じゃ、理科室はどう? たしか掃除機があったよね」
「いいねいいね」
春香は、もともと『いぬつかいナコ』のファンだった。
入学式で新入生を犬に変えてしまって、クラスの腫れ物になっている奈子に話しかけてくれたのは彼女だけだった。
ふつう好きな有名人と友達になれたら浮足立つものだと思うのだが、春香は少し変わっていた。
たまに、テレビアニメの魔法少女のことを『応援すべきお友達』だと信じ込んでいる子どもがいるが、春香はまさしくそれだった。
初対面のくせにナコちゃんナコちゃんと幼馴染みたいに呼んでくるのにはさすがに面食らったのだが、仲良くしてもらえるのは奈子としても有難かった。
奈子は一人でいるのが嫌いではないが、誰かと一緒に行動したくなる時だってあるのだ。
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