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ロッカーでいくつかの物品を取り、奈子と春香は理科室へ向かった。
「……ワンちゃん、おとなしいね」
奈子の腕と一体化しているパグ犬を見て、春香が言った。
「おなか空いてるのかな」
「ああ、吠えたから喉が渇いてるかも。あとでお水もあげよう」
放課後の理科室は漫研のオタク男子たちがたむろしている。が、彼らの多くはギャルに寛容なうえ、今は真剣デュエルが白熱しているようだ。
奈子はパグ犬を春香に預けて、床に犬用ブランケットを広げた。静電気が起きにくいフカフカのダブルガーゼ素材だ。
寝かせたところへ、実験用の大きなペトリ皿に水を汲んで持ってくると、パグ犬は露骨に嫌そうな顔をした。
「どうしたの。実験用だから綺麗だよ。アルコール臭いかな?」
優しい春香が手ですくって飲ませようとすると、慌てて水に舌をつける。
奈子は目を細めた。犬の水の飲み方は実にメカニカルだ。長い舌をお玉のように巻いて水を掬い上げ、こぼれないようにサッと口を閉じる。
まだ人間的な理性が残っているところは気に入らないが、犬らしい仕草が板についてきたようなのは良かった。奈子はすかさず右手にラバーブラシを、左手に獣毛ブラシを構えた。
「出たっ、墜落の構え」
いぬつかいのファンである春香は、嬉しそうに手を叩いた。恐ろしげな言葉にパグ犬はびくっと身を起こしたが、もう遅い。
「ふきゃぁああ~」
これはパグ犬の声だ。
ブラッシングの皮膚刺激は犬の血行を良くする。子どもの頃から鍛え上げた奈子のブラッシングさばきで寝ない犬は、基本、いない。
うとうとして寝落ちどころか、まっさかさまに夢の世界に墜落してしまうのである。手足をピクピクさせているパグ犬を見て、春香は嬉しそうに笑った。
「ねー、奈子ちゃん」
「なによう」
肩に頭を乗せてくる春香に、奈子はそっけなく返事した。背後に百合好き男子の熱い視線を感じるので、片手でサッサッと払う。
「なんで奈子ちゃんには、こんなに不思議な力があるんだろう?」
「んーとね……」
当時の奈子はいくつかのテレビ番組で、まったく違う解答をしている。が、春香には一番ウケがよかったものを紹介することにした。
「父方のおばあちゃんがね、もうとうの昔にお亡くなりなんだけど」
「うんうん」
「なんと、男も女も犬にしてしまうプロ女王様だったんだって」
「……へー」
深夜のバラエティー番組では若手芸人が『隔世遺伝かいっ』とツッコんだネタなのだが、春香の目の中には吹雪、いや霰がよぎった。雪よりも粒が固くて、当たると痛いのである。
奈子は咳払いして「いや、犬なら許せるからじゃん?」と説明しなおした。
「許せるって?」
「人間ならされてイラッとすることでも、犬にされたらかわいいし仕方ないかなって思う。思うっしょ?」
「言いたいことはわかるけど。それって猫じゃダメなの」
「猫ね。猫かわいいんだろうけどね、ムリ。絶対に許せん」
「えぇ~……」
「えっ? 猫派?」
「ごめん、ケモノは箱推しだよ……ウサギとかインコも好きだなあ」
箱推しとか言うわりにダチョウやゴリラが出てこないあたりふざけてんな、と奈子は思ったが、別にイラッとはしなかった。
これは相性の問題で、怒ることはできてもイラッとできない相手というのが、人間誰しもいるものなのだ。
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