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 洋平くんの足音がする。  玄関で伏せて待っていた僕は、勢いよく立ち上がる。尻尾が勝手に振れてしまうのを、抑えられない。  ガチャ。  仕事から帰ってきた洋平くんに飛びついた。 「ただいま、タロ」  靴もリュックもそのままの洋平くんに、僕はくしゃくしゃと撫でまわされ続ける。 「よし、荷物置いてくるから待ってな」  それを合図に、僕は玄関で大人しく待つ。洋平くんが仕事から帰ってから散歩へ行くのが、僕と洋平くんの日課なのだ。  優しくてひょろりと背が高い洋平くんと、ゴールデンレトリバーの僕。我ながら、なかなかの名コンビだと思う。  部屋へと消えた洋平くんが、僕の首輪とリードを持って戻ってきた。僕は顎を上げて、首輪をうける。 「気を付けて行ってらっしゃいよ~」  お母さん(洋平くんのお母さん)ののんびりした声に見送られ、僕らは外へ繰り出す。  さぁ、冒険の始まりだ。    いつもの道を、洋平くんの歩調に合わせてゆっくりと歩く。  木々や草の色がすっかり茶色に染まって、道端は枯れ葉や冬の匂いで埋め尽くされるようになった。  乾いた空気が、鼻にあたってピリピリする。吐いた息は白く煙って、すぐ透明にかわる。それが不思議で、僕は何度も何度も大袈裟にハァハァ息をした。  冬だ。  冬は寒いし、冬用の毛に入れ替わる段階はちょっと体がかゆいけど、僕は冬も好き。ストーブはあったかいし、洋平くんの足元にくっついて寝ると、とっても気持ちがいいもの。  洋平くんが、いつもの公園のフェンス前で立ち止まる。  このだだっ広い公園では、小学生くらいの男の子がひとりでサッカーボールを蹴って走り回っていた。1、2週間くらい前から、よく見かけるようになった。  あの子が使っていなかったら、この公園に寄って、僕は思う存分走り回るのだけれど。  ちょっぴり残念に思いながら、黙って洋平くんの隣で待つ。  と、乾いた風の中に、華やかで上品な香りが漂ってきた。  風の根本に目を向けると、コーギーの女の子がやって来るのが見える。茶色と白のミックスの毛がつやつやで、風になびいてふわりと逆立つ。足取りはしなやかで可憐だ。  なんて可愛らしいんだろう……。  その潤んだ黒目がちな目が、まっすぐに僕を見る。目を、そらせない。  僕は一瞬にして、彼女に恋をしてしまったみたいだ。  堪え切れなくて、彼女に挨拶へ行こうと洋平くんをぐんと引っ張る。 「ちょ、タロ! 止まれったら!」  洋平くんの制止も聞かずぐいぐい引っ張り続け、ドサッ、という音とともに、リードが軽くなった。  しまったと思って振り返るも、時すでに遅し。すぐそこに洋平くんが倒れていた。 『ごめんね、ごめんね洋平くん』  いくら謝っても、僕の声は洋平くんには届かない。なんてことをしてしまったんだろう。洋平くんを引っ張ったらだめだって、お母さんからも言われていたのに……。  しゅんとして洋平くんのそばをうろうろしていたら、さっきの上品な香りが濃くなった。と同時に、僕と洋平くんが、夕陽の影になる。 「大丈夫ですか?」  影と声の主は、さっきのコーギーの女の子を連れた、女の人だった。  洋平くんに手を貸し、怪我の手当てをしましょうと、公園の中の水道まで連れて行ってくれる。 「私、看護師の卵なの。要するに、実験台ね」  遠慮する洋平くんに有無を言わさず、半ば強引に手当てをしてくれた。  とびきり明るい雰囲気の女の人は、真理さん、というらしい。ふんわりカールがかかった肩までの髪に、ぱっちりな目。大きな口と綺麗な歯並びが印象的だ。そしてコーギーの彼女はマロンちゃん。名前まで可愛らしい。僕があまりにもじっと見つめるものだから、マロンちゃんはぷいっとそっぽを向いてしまった。  手当てをしている真理さんの目線が、洋平くんの右足にとまる。それに気付いた洋平くんが 「昔、サッカーしてた時怪我して。それで足をちょっと引きずってるだけだから。足は大丈夫です」  なんでもないことみたいに言った。  洋平くんの右ひざには、縦に大きく縫った傷跡がある。  僕が山野家にやってきたときにはそれはもうあって。  お母さんとお父さんがコソコソと話していたことによると、僕は、洋平くんのリハビリも兼ねて、楽しく散歩に出てくれたらという期待も込めて連れてこられたらしい。    それなのに洋平くんに怪我をさせてしまって……より一層落ち込む僕。  マロンちゃんからは、キッと睨まれた。  ダブルショック。  家に帰ってから、洋平くんはお父さんにもお母さんにも怪我したことは言わなかったし、僕を怒ることもなかった。  その日僕は初めて、ご飯を半分残した。    気にすんなよと、洋平くんは、寝る前ずっと、僕の頭を優しく撫でてくれた。
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