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橙春(とうしゅん)
六畳ほどのクリーム色の部屋の中で、東橙子(あづまとうこ)は明るめの茶に染めたショートボブの髪を揺らしながら、ベリーショートの男と共に黙々とカレーを食べている。
彼の名は西部春(にしべしゅん)。
体は多少鍛えていた為か、多少の筋肉の隆起が見られる。
一方で、その顔は若干の少年ぽさを残すぐらいの童顔であった。
その微かな笑みを浮かべている春の顔を橙子は無表情に見る。
そして、暗い声で彼に語りかけた。
「……そんなに美味しい?」
春は満面の笑みを浮かべながら答える。
「うん!美味しいよ!」
橙子は蛇に睨まれたカエルの様に動きを止める。
一方で春はそのまま食事を続けた。
少しの間、春が使うスプーンのかちゃかちゃという音だけが部屋の中に響く。
次の瞬間、その静寂は打ち破られた。
橙子が自分のカレーの皿を春の顔に投げつけたのだ。
陶器製の皿が地面に落ちる「ドンッ」という音やカレーと米の水気を含んだ音が鳴った後に響いたのは春のスプーンが再び皿を叩く音だった。
顔がカレーまみれになった春は何事もなかったかのように笑みを浮かべ、カレーを自分の口に運び続けている。
息を切らした橙子は顔を手で覆い、泣き叫ぶ。
「違う!違う!お前は!春じゃない!」
するとスプーンの音は消え、彼女だけが部屋の中にポツンと1人でうずくまっていた。
「春は……。いつも素直に褒めてくれなかった!ムカついたし、そこは嫌いだった!でも……褒めてくれる時は褒めてくれた!」
場所は変わり、彼女は小学校の教室の中に立っていた。
そこには、ひとクラス程の人数の子供がとある黒髪の女子を問い詰めている。
問い詰められている女子の両手の平にはハムスターの死骸があった。
そこに他の男子が1人割り込んで女子を庇う。
「そうだったね……。春がこの時、私を助けてくれた。
私が逃げ出したハムスターを間違って踏んじゃった時だ…。」
幼い橙子は顔を上げて庇ってくれた男の子を見る。
その瞳には輝きが灯り、頬は少し紅潮していた。
橙子は歩き出す。
情景は変わっており、枯れ葉が落ちる中、今度は橙子の前方に中学生となり、長袖のセーラー服を着た若い橙子が同じぐらいの年齢の春の隣に走って並び、そして話しかけた。
春の方は少し恥ずかしがった様子だったが、若い橙子の方はそんな事も気にせず話かける。
後ろから見ていた橙子は独り言を呟く。
「この頃、思春期真っ盛りだったから、春に話かけてもボソボソって返すだけだった。でも、それも可愛かったよ……。」
再び情景は移ろう。
雪が降る中をブレザーを着た橙子と春が、お互いかなり近い距離で言葉もあまり交わさないで同じ歩調で歩いている。
2人は頬を紅潮させ、なんの話をしようかと考えあぐねている様子だった。
「高校の時に付き合えたんだよね。
凄い嬉しかった……でも、なんか意識したら私も喋れなくなってたよ……。」
橙子は足を止める。
そこは先程と同じ、クリーム色の部屋だった。
しかし、先程とは違い、そこにはもう1人の橙子と春が共に横になり、お互いに顔を付き合わせて談笑している。
「大学時代だ…。最高の時間だった。春の嫌なとこも見たし、何回か別れようかなとも思った。
でもやっぱり好きだったから…。春といた時間が1番だったから…。」
彼女がそう言った瞬間、風景はとある駅に移り変わった。
そこには、そこかしこに血痕があり、そして、橙子の目の前の血痕にはハムスターの死骸と血の付いた刃渡りが長いナイフが落ちていた。
橙子は表情を悲痛に歪め、叫ぶ。
「いや……いや……いやあああああああああ!!」
橙子はうずくまり、耳を塞ぐ。
何も見ないように何も聞かないように。
彼女の閉じた目からは涙が滲み出ていた。
しばらく彼女がうずくまっていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「…橙子、顔を上げて…。」
橙子が恐る恐る前方を見ると、そこには着慣れていない黒いスーツと赤いネクタイをした春の姿があった。
少し困惑した様で、相手を心配する顔を浮かべている。
「春…。」
そう言うと、橙子は春に駆け寄り、抱きついた。
春が優しく声をかける。
「どうしたんだよ……?そんな辛い顔して……。」
橙子はその声の様子に本物の春を見出す。
彼は自分に何か心配事があったら、過去にも何回か、こういう風になだめてくれたと。
「……私、もう辛いんだよ……、春がいない世界が。嫌な事が大きく感じられて、楽しい事をしようとしても楽しくないんだ……。忙しくする事でなんとか頭から雑念を消せてたけど、もう無理だよ……。」
春は嗚咽する橙子の頭に手を載せて、優しく撫でる。
「そうか……、俺には橙子の苦しみをわかる事が出来ないけど、とりあえずここでいっぱい泣いておけよ……。」
その言葉に甘えて、橙子は彼の胸で思うがままに泣いた。彼の体の強固さを手で感じ、彼のにおいを鼻で感じ、彼の体の音を耳で感じながら。
橙子が少し落ち着いた様子を見せると、春は安心したかのように、息を少し吐いて橙子を気遣いながら立ち上がった。
「いや……。行かないで…。」
そう言って春のズボンを掴んだ橙子に彼は微笑み交じりで返す。
「大丈夫だよ……。もう春は強くなったから。俺がいなくても。」
また泣きだしそうになりながら、橙子は叫ぶ。
「違う!だって……だって……私は!」
そう言うと、彼女の姿はパンツルックのスーツを来ている姿に変わっていた。
自分の姿を見て、橙子は唖然とする。
……スマホのアラームが鳴る。
橙子の視界に徐々に天井の白い壁がフェード・インしてきた。
そして、開ききった眼から溜まっていた涙がツーッと流れる。
橙子はアラームを止める事もなく、しばらくそのまま天井をぼんやりと眺めていた。
起床した橙子は身支度をする。
最早10年以上続けてきた作業を特に何も考えずに行う。
少し考えるのは朝ごはんぐらいで、適当にスープと食パンを体の中に入れ、歯磨きや洗顔をすます。
そして、寝室のクローゼットの中から仕事に行くためのスーツを取り出す。
それはまさに、彼女が夢の中で着用していた物だった。
橙子は特にリアクションもせずにそれを着用する。
そして、化粧をしようと鏡を見た時、彼女の口から渇いた笑いが自然と出た。
夢の時の中学、高校、大学の時のような、目に輝きが灯り、顔に満面の笑みが満ちていた少女の面影はそこにはなかったのだ。
そこにあったのは、目の中は淀み、表情は死んでいる女の顔だった。
毎日見ていた筈なのに、今さらにその顔の生気の無さに気が付いたのは、やはりあの夢のせいだろうか。
そんな事を一瞬考えた後に、まるでその死んだ女の顔を塗りつぶすかの様に、彼女は化粧を始めた。
出勤の時刻に余裕があったので、橙子はスマホでSNSを見て、そしてトレンドの中に〇〇駅連続刺殺事件というワードを見つけた。
それをタップするとSNSでの反応がぞろっとタイムライン上に出てくる。
「もう10年前か……」
「死んだの6人だっけ?」
「無敵の人こわー……」
様々な人の反応が流れていったが、その中の、ある反応に橙子は指を止めた。
「確か、大学の卒業式の日だったなあ」
その日、橙子も春と共に大学の卒業式を迎えようとしていたのだ。
春はスーツ、橙子は晴れ着を着て、卒業式の会場に向かおうと電車に乗って最寄りの駅に着いたところで事件に巻き込まれた。
犯人は近場で大学の卒業式があると聞き、そこを犯行の現場と定め、6人の大学生が死亡、3人の通行人が重軽傷を負う事件となった。
春は最後の犠牲者であり、橙子を狙った犯人の刺突をかばって受けた為に出血多量で亡き人となったのである。
事件の記憶がフラッシュバックしそうになった為に、橙子はスマホをスリープにする。
出社の時間も近づいてきた為に、バッグを掴み、玄関に向かう。
ドア付近で自分の暮らす部屋を見る。
1LDKの寝室を別個に設ける事も出来る、1人暮らしには十分すぎる部屋だ。
大学生の頃の6畳程の部屋に比べれば、特に不自由は感じない。
しかし、あの時代にあったものはそこにはなかった。
橙子はドアを開け、外に出る。
そして、ドアが閉まる前にぼそりと呟く。
「だって……私、中身は春がいた頃から全く変われてないから……。」
その声はドアによって室内からはかき消され、「カチャ」っと鍵が閉まる音だけが部屋の中に響いた。
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