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黒い犬
今では考えられない話だが、昭和の時代には、学校の校庭に野良犬が迷い込んでくることが度々あった。
現在40代のAさんは、小学生の時、そういう光景を何度も目にしたという。
「ただ…一度だけ、よく分からないことがあって…」
当時、Aさんは小学四年生だった。2階の教室の窓際の席で授業を受けていたAさんは、ふと何かの気配を感じ、校庭に目を向けた。
そこに、2匹の野良犬がいた。
黒い毛並みの犬と茶色の毛並みの犬が、校庭の真ん中で激しく争っていた。
Aさんは腰を浮かせて、野良犬がいる!と声を発した。
様子に気付いた担任が窓辺にやってくる。彼は犬の喧嘩を見て、苦い顔をした。
「全員、席に着いていなさい」
野良犬の乱闘という非日常なイベントに沸き立つ生徒たちを一喝し、担任は急ぎ足で教室を出て行った。
Aさんと同級生は、これからどうなるのだろうと、ワクワクしながら窓の外を見ていた。
しばらくすると、何人かの教師が箒や棒切れを手にして校庭に出てきた。彼らは恐る恐るといった感じに犬に近づいていく。
と、それまで一心不乱に争っていた犬たちが、ぴたりと動きを止めた。
勝負が決していた。
黒い犬が、茶色の犬に覆い被さっている。その牙が、茶色の犬の喉笛に深く突き刺さっていた。茶色の犬はしばらく痙攣していたが、やがて動かなくなった。
黒い犬は牙を離し、頭を上げる。
真っ赤な目をしていた。
その目で、教師たちをじっと見つめている。教師たちは怯んだように動きを止めた。
ーーー※※※
黒い犬が口を開けると、まるで野鳥のような不思議な鳴き声が聞こえた。2階にいたAさんたちにも、何故かその声ははっきり聞こえたという。
そして次の瞬間、唐突に犬が『崩れ』た。
「へんなことを言っているのは重々承知なんですけど、それ以外言いようが無いんですよ。ドミノ倒しでタワーみたいなのあるじゃ無いですか? アレが崩れる感じに近いですね。本当に、ザーッて感じで『犬』が崩れたんです」
黒い犬の姿は幻のように消え去り、後には茶色の犬の死骸しか残っていなかった。
後日、保健所の人間が調査したところによると、その茶色の犬は狂犬病に罹患していたことが判明した。
「もし、あの茶色の犬が校舎内に侵入していたらと思うと、ゾッとしますね」
Aさんが黒い犬を見たのは、それっきりだという。
「ウチの田舎には、犬に纏わる言い伝えが何も無いんですよ。だから、あれは神様が助けてくださったんだと思うんですけど、どなたにお礼を申し上げればいいのか分からない。それだけが困ったことだと、大人たちは言っていましたね」
Aさんはその後に民俗学を専攻し、趣味で郷里の民話や伝承を調査するようになった。
しかし、黒い犬に纏わる話は、未だに見つかっていないそうである。
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