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何しろ三十年も前だから、犬の飼い方など適当なものだ。犬のエサは人間の食べ残しだ。夕飯の匂いで、犬はその日のエサの良し悪しを把握していた。唐揚げの日は、エサを持っていく前から飛び跳ねて喜んでいた。唐揚げの骨は喉に刺さるから犬には与えない方が良いと知ったのは、犬が死んでから5年はたった頃だった。野菜炒めの日は、小屋から出てきもしない。気に入らないエサは人間が見ている前では絶対に食べない。それが犬の矜持だった。  ある日、人間の夕飯が全く残らないことがあった。仕方がないのでご飯に牛乳と卵をかけて、カマボコの端切れもつけてやった。卵も牛乳も犬の大好物だった。  しかし、犬は喜ばなかった。エサが入った古い鍋をしげしげと見つめ、エサを持ってきた人間を見つめ、小屋に戻っていった。朝になったらエサはなくなっていたけれど、あんなふうにエサを前にして悲しい顔をしたことはなかった。味噌汁に卵をかけただけのものでも、それなりの反応を示していたのに。  犬は、人間と同じものを食べることで、つながりを確認していたのかもしれない。 犬の顔が急に白くなった。顔一面が真っ黒い毛におおわれていたのが、白髪に変わった。犬にも白髪ができるのだ。 「あんた、男前になったなあ」 と母が言った。真っ黒な毛に目鼻を覆われていたのだが、白髪に変わると鼻筋の通った男前の顔が出現した。まつ毛も白くなって、眼もとに愁いを帯びた美犬になった。  この犬の母親も白い美犬であったが、その顔だちを引き継いでいたことにいまさら気が付いた。人間も年を取るにつれてそれまでは似ていなかった親子の背格好がそっくりになって驚くことがある。犬も同じであるようだ。  白髪になっても犬は元気だった。よく食べ、散歩の催促をした。冬になると夜鳴きすることが増えたので毛布を一枚足してやった。今まではボロボロに噛みちぎっていたのがおとなしく抱いて寝るようになった。多少は老いているがまだ元気だろう。そう思っていた矢先、突然エサを食べなくなった。夕食の時に与えたエサが朝までそのままになっていた。 「なぜ食べないのか」 犬は嬉しそうに舌を出してハッハッハ、というだけだった。牛乳でかゆを炊いてやっても食べない。明日にでも獣医を呼ぼう。そう話していた夜に、苦しそうに長い鳴き声をあげて、死んだ。犬は予防注射以外医者にかかることもなく、残飯だけで十三年生きた。  犬の体は、つながれていた木の根元深くに、好きだった毛布にくるまれて埋められた。
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