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 犬の「生」とは何だったんだろうか。自発的な行動は許されなかった。好きなものを選んで食べることも許されなかった。  一度、うちに来た庭師が、地面に落としたおやつのカステラをその場に埋めたことがあった。田舎の人はゴミを木の根元などに埋めればいいと思っているところがある。 犬はそれを見つけ出し、掘り出して食べた。自分で発見したエサを食べた喜びが現れていた。鎖につながれていた犬には、珍しい体験であっただろう。  犬はいつでも待っていた。誰かがエサをくれるのを。誰かが散歩に連れて行ってくれるのを。誰かが声をかけて頭を撫でてくれるのを。ひたすら待って、いつも人間の住居を見つめて、犬は生きて、死んでいった。  犬の「生」に意味はあったのだろうか。彼は満足していたのだろうか。  分からない。 犬が死んだ後もしばらくの間、どこかに吹きだまっていた犬の抜け毛がかたまりになってコロコロと出てきた。犬が存在していた名残が、風に吹かれてどこかに去っていく。犬との思い出もまた、記憶の淵からふんわりとしたかたまりになって現れてはまたどこかに去っていく。  人の「生」も、同じかもしれない。生きて、死んで、誰かの思い出にふんわりとした名残を残して消えていくのだ。 「みんないっしょだよ」 私は、犬が埋められているあたりに向かってつぶやいた。木の根元には、鎖につながれていた犬が飛び跳ねるたびに鎖を引っ張ってつけた傷が、今でも残っている。
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