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第19章 葉月
「ただいま」
帰宅した彼の表情は疲れたという感じだった。
「どうしたの?」
彼がえ? という顔をして私を見た。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「なんかぼーっとしてたよ」
「実は遊ばれちゃって」
「どういうこと?」
それから彼が苦笑しながらその日あったことを私に話してくれた。私はその話を聞いて愕然とした。
「どうしたの?」
話し終わった彼が私にそう問い掛けて来たのが、遠くの声に聞こえた。
(小枝子さんと逢ったんだ)
私は彼がとうとう小枝子さんに逢ってしまったことが、とてもショックだった。
「小枝子さんと逢ったんだ」
「うん。相変わらずだったよ」
「そう」
「懐かしかったなあ。何年ぶりかなあ」
彼はとても嬉しそうだった。私がそのことにとてもショックを受けていることなど、全く気が付いていないようだった。
「冴子さんのことはどうするの?」
「彼女が捜すって言えば、付き合おうかなとは思ってる」
(彼女が来てって言えば行くの?)
「でも、ゲームなんでしょ?」
「うん。でも心配は心配みたいだよ」
(私を置いて彼女と行くんだ)
「彼女と連絡を取り合って決めることになるかな」
「うん」
彼の喜びが私にも伝わって来た。それは冴子のゲームに巻き込まれた一種のお祭り騒ぎが理由でないことは明らかだった。それは思い出の同級生に偶然出逢ったことに対するものだということは、分かり切っていた。
「平泉に行くの?」
「場合によってはそうなるかもしれないね」
(どうしてそんなところに行くの?)
(小枝子さんと二人で行くの?)
(あ、平泉は小枝子さんと思い出の場所だったよね)
(そうか、だから平泉に行くんだ)
「平泉、最初に逢ったとこだね」
「うん。そうだね。四人が初めて逢ったとこだね。あの時あの芭蕉の句を聞いてたから、平泉だって思い付いたんだよ」
(彼、また同じことを言ってる。さっきもそれは聞いた)
「冴子さん、平泉にはいないんじゃない?」
私はつい本当のことを言ってしまった。言った後でしまったと思った。
「え? あ、そうかもね。どこか友達の家を渡り歩いてるかもしれないって、小枝子も言ってたし」
(また小枝子さんの話)
私は本当のことを言いたくなった。冴子は私が大学の2号館の屋上で突き飛ばした勢いで頭を強く打って意識がなくなったって。多分冴子は今もあそこにいる。だって、もし生きていたら行方がわからないなんてありえないから。あの場所は後2カ月は誰にも見つからないだろうと思う。二か月経ったら、大学の施設管理の点検で見つかってしまうだろうと冴子の話から想像出来た。でも、今はそのことは考えたくはなかった。
―冴子は死んでる―
私はそう彼にこの場で言いたかった。でもそれは出来なかった。彼は携帯でメールを打ち始めた。きっと小枝子さん宛てのメールだろう。私は急に蚊帳の外に置かれた気がした。
(小枝子さんが邪魔)
私はそう思った。そして、どうにかしなくてはいけないと思った。
(どうしよう)
私は隠してある冴子の携帯を思った。あれを使って小枝子さんをどこかへやれないかと思った。
(どこかへやる?)
私は小枝子さんをどこにやろうかと思った。それこそ、平泉に飛ばしてやろうかと思った。しかし、そうしたら、彼も平泉に行ってしまうに違いない。
(そうはさせない)
ではどうしよう。私は夕飯を作りながらそればかりを考えていた。
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