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第13章 葉月
私は自宅では彼といつも一緒だった。夕食後の時間はリビングでテレビを観たり、ゲームをしたりした。彼が勉強をするから部屋に戻ると言い出しても、勉強を教えて欲しいと言って彼にくっついていた。私は彼を独占していた。独占しているつもりだった。家では私を阻む者が誰もいなかったからだ。だから心がいつも満ち足りていた。それが或る時、一本の電話でそれが違うことを知らされた。
「もしもし」
彼の携帯が急に鳴り出して、それに彼が出た。
「あ、秋山? 明日の記号学? うん。3015教室だよ」
私にはそれが分からない世界の話だった。彼の口から出る言葉は秘密の暗号のように私を拒絶していた。
「それって、ソシュールのシニフィアンだっけ?」
私は彼の話を聞いていて悲しくなった。彼は私の知らない世界を持っていた。そしてそこは私が踏み込むことを拒否している世界だった。
「じゃあまた明日ね」
彼はそう言って電話を切ると、私がボロボロ涙を流しているのに気が付いてびっくりした。
「葉月どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
「……うん」
私は彼がこの家にいる姿しか知らなかった。私が外で彼と会ったのは、パプリカを買いにスーパーに行ったあの時だけだった。後はずっとこの家で彼を送り出し、そして彼の帰りを待つだけだった。勿論彼に不満なことがあるわけではなかった。しかし、彼は私の知らない世界を持っていた。それが私を遠ざけ、そして悲しませていた。
朝食の後、何度か彼と一緒に大学へ行ってみようかと思ったことがあった。一緒でなくても、彼の後をつけて彼が大学でどんな生活をしているか見てみたいと思ったことがあった。彼も昼間の大学に編入試験を受けるんだったら昼間の大学がどんなところか見ておいてもいいんじゃないかと言ってくれたことがあった。それで一日くらい洗濯と掃除をしなくてもいいよねと自分に言い聞かせて、そして彼がその日どこで講義を受けるかを調べて、そして私は彼に内緒で彼の大学に尋ねて行こうと思った。
その日、どこで何の講義が行われるかは、彼の机の上にスケジュール表が貼ってあって、それを見ればすぐにわかった。私は電話で暗号みたいに語られていた記号学の講義に行ってみることにした。場所は3015教室となっている。その教室がどこにあるのかは誰かに聞けば教えてくれるだろうし、時間も13時半からとなっているので、朝食の後片付けをゆっくりしても十分間に合う時間だった。
その翌日、時間になったので私は家を出た。それだけでも大きな勇気だった。明るい時に家を出るのは心療内科に行く時だけだった。その時は大きなマスクとメガネ、そして帽子を被って行った。まるで花粉症対策のような格好だけど、私はそういうスタイルでないと昼間は一人で外に出られなかった。
今日の外出は家族の誰にも話してなかった。勿論彼にも内緒だった。内緒で会いに行くからこそ意味があることだった。後ろから彼の背中を叩いて、それから彼が振り返って、そして私の顔を見てびっくりするところを何度も想像した。そして次の瞬間、きっと笑顔で私を歓待してくれるだろうと思った。
大学の最寄り駅に着いて改札を出ると、目の前に大きな建物がいくつも並んでいるのが見えた。そして同時に多くの学生も見えた。その時、太陽がキラっと光って私は立ちくらみをした。それで私はその場で座り込んでしまった。たくさんの学生が私の横を通り過ぎて行った。
「大丈夫ですか?」
そのような声が聞こえた気がしたけど、空耳だったかもしれない。私は電車から降りた学生の大群がそこから消えてしまうまで、その場所から動けなかった。そして周りに誰も人がいなくなった頃、次の電車が来る前にそこを移動した。
「すみません。3015教室はどこですか?」
気がつくと目の前に歩いていた女子学生に私はそう尋ねた。
「そこの建物の一階です」
「ありがとうございます」
私はようやく彼がいるその教室の前に辿り着くことが出来た。
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