私をさがして

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私を捜して 序章 ―私を捜して―  私はずっと自分を見つけて欲しいと思っていた。本当の私を今の偽りの状態から拾い上げてくれて、太陽の下で生き生きと暮らせるようにして欲しいといつも願っていた。  第1部 第1章 小枝子  それは私が中学2年生になったばかりの頃だった。ゴールデンウィークが終わって初めての英語の授業で突然テストが配られた。 「先生、いきなりテストだなんて酷いよ」 「お前たちが休みボケしていないか、チェックをするだけだよ」  その英語の川本先生は、授業自体は厳しくはなかったが、時々抜き打ちでテストをすることがあった。それで私は休み中に、4月に習ったところを何度か目を通していたが、まさか休み明け初日に小テストがあるとは思ってもみなかった。問題が配られるとテストといっても遊びのような内容で、ゴールデンウィーク明けでもこの程度なら大丈夫だと思った。 試験時間は10分だった。答え合わせは隣の席の人と解答用紙を交換し合って行われた。私は満点の自信があった。と言ってもこんな問題なら誰でも満点だろうと思った。 「あ、小枝子ちゃん1問だけ違ってるよ」 「どこ?」  隣りの田中さんが私の回答をチェックしながら突然声を出した。 「うそ!」 「ううん、ここスペル間違ってる」 「どこ、どこ?」  それは、「呼びかけとして用いられる挨拶、もしもし、やあ等」という問題のところだった。 「だって、ハローで間違ってる?」 「ハローはハローだけど、AでなくEだよ」 「え?」  私は自分の解答用紙のハローのスペルを覗きこんだ。そこには「HALLO」という英単語が書かれている。 「ね! 正しくは『HELLO』だもの」 「あ」  私はすかさず机の中に仕舞ってあった英語の教科書を取り出して、その英単語が書かれてある頁を開いてみた。 「あ!」 「ね! Eでしょ?」  田中さんはそう言って、私のその回答にばってんをつけた。 「九十点かあ」  私は残念だった。このテストが成績に反映されるのかどうかはわからなかったけど、あんな簡単な問題を間違えたことがショックだった。田中さんは勿論満点だった。周りの子はみんな全問正解だとしゃべっていた。私はこんな問題で間違える方が珍しいと思った。  翌日の英語の時間、川本先生があの小テストの解答用紙を抱えて教室に入って来た。そしてそれを教壇の上に置いたので、これからそれが返却されるのだとみんながわかった。普通のテストなら点数の高い生徒の名前が呼ばれて、みんなから称賛ともうらやみともとれる喝采を浴びることになったのだろうけど、そのテストに限っては、寧ろ満点を取れなかった人の方が発表されそうな予感がしていた。そしてその悪い予感は見事に的中した。 「みんな素晴らしい成績だった!」  そこでクラスのみんなが大きな拍手をした。勿論私はうつむいて静かにしていた。 「でもクラスの平均点は、このクラスだけ百点じゃなかったよ」 今度は「えー」という声がみんなから発せられた。その理由は三人だけが知っていた。その三人とは、私と川本先生と田中さんだった。 「高木! 残念だったな。おまえだけ90点だった」 (先生、そんなことみんなの前で言わなくてもいいのに) 「なんだよ、お前が完全制覇を妨げたのかよ」 「あんなテスト、1問だって間違えるやつがいるかよ」 そんな声があっちこっちから聞こえた。 「みんな静かに! このクラスの平均点は百点ではなかったけど、限りなく百点に近かったことは確かだ。今度の中間テストでもこのくらい良い成績を取るんだぞ!」  川本先生はそう言って、端の席から順に解答用紙を返して行った。そしてそれはあっという間に私のところになった。私は先生から何か言われるのかと思って、そこから逃げ出したい気分になった。私は、あんなテストが100点を取れなくたって、たいしたことではないのにと思った。しかも、たった1問をケアレスミスしただけなのに、と思った。きっとちゃんとしたテストをしたら、私より点数が悪い人がいっぱいいると思った。それなのに、私はクラス全部の責任を一人で背負ったみたいな形になって、どうして、さらしものにされるのかと思った。 「先生、このテストを他のクラスでもしたんですか?」 「ああ」  先生が私の目の前で止まって男子の質問に答えた。私は蛇の生殺し状態だった。 「他のクラスの平均点は何点だったんですか?」 「うん」 「まさか他のクラスは全部百点?」 「まあ、そういうことだ」  私は消えたいと思った。 「先生、高木は何を間違えたの?」  先生、早く私の解答用紙を返して、そして早くこの時間を終わらせてと念じた。 「うん。ハローだよ」 「ハロー?」 「そのスペルをちょこっとケアレスミスしただけだよ」 「ええ! あんなの間違えるか」  私の頬に気付かない間に涙が流れていた。 「もう! みんな、よしなよ!」  それは田中さんの声だった。けれどそれでみんなの不満が収まるはずがなかった。 「ハローをどう間違うんだよ。あんな簡単な単語」  私は自分に消えてなくなれって呪文を唱えた。 「EをAって書いちゃったんだよ。ヘローじゃなくてハローだから」  先生も困ってそう答えていた。しかし男子はそれを聞いてますます声を大きくした。大きな声があちこちで発せられて、もう私にはそれが何を言っているのか聞き取れなかった。その時だった。 「先生!」  いきなり彼が手を挙げた。 「先生、高木の答え、見せてもらっていいですか?」 そして彼は先生のところに歩み寄って、私の回答を渡してと言わんばかりに手を差し出した。先生は解答用紙の束の一番上にあったそれを渡すと、そのまま黙って彼の動向を見ていた。 「ハローが『HALLO』でバツか」  彼はそう言うと、それを再び先生に戻しながら言った。 「先生、正解ですよ。間違いじゃないです」 「え?」  先生はきょとんとした顔をした。 「教科書には『HELLO』と書かれていますが、『HALLO』でも間違いではないです」 「え!」  クラスがどよめいた。 「そんなことあるかよ!」  他の男子がそう叫んだが、彼が見返すと、その男子は声をひそめた。 「そっか、影山がそう言うんなら確認してみよう」  先生はそう言って私以外の全員に解答用紙を返却し終えた。英語の授業が終わって先生が教室から出て行くと、クラスではさっきの出来事があちこちで囁かれた。私はあれからずっと彼のことを見ていた。 ―彼― そう、その彼とは近所に住んでいて、実は顔も名前も知っていた。でもなんか怖い印象があって、一度も話をしたことがなかった。だから私は彼のことを影山君という呼び方をしたことがなかった。その他大勢の男の子と同じように、「男子」という呼び方をしていた。 小学校の6年間は一度も同じクラスにはなったことがなかった。寧ろそれは良かったことだと思っていた。それが中学生になって同じクラスになったと知った時、私は不吉な予感がした。今までは何も接点がなかったからこそ平穏に過ごせて来た学校生活が、これからはきっと嫌なことが起きると思った。  翌日、3時間目が英語の時間だった。昨日の決着がそこで付くとクラスのみんなは思っていた。  授業開始のチャイムが鳴ると、みんなは一斉に席について、川本先生が来るのを今か今かと待っていた。そして遂に教室の前のドアから先生が入って来ると、早速小テストのことはどうなったのかと大きな声が上がった。 「あー、わかった、わかった。みんな待て!」 「それでどうだったの?」  みんなは先生に注目した。 「高木、悪かったな。みんなにも悪かった。このクラスの平均点は百点だった!」 「やった!」  大きな歓声が教室内に広がった。私も自然に笑顔になっていた。隣の田中さんも「良かったね」と言ってくれた。 「教科書には『HELLO』と表記されているから、これからはそう書いて欲しいけど、『HALLO』でも間違いじゃないんだよ」  クラスのみんなは私の回答が正解だったことには関心がなかった。クラスの平均点が他のクラスよりも劣っていなかったことが嬉しかったのだ。 「影山、ありがとう! 先生も勉強になったよ」  先生のその言葉に彼は黙って頷いていた。私は笑って彼を見た。彼は表情を変えずに私をちらっと見て、またそっぽを向いてしまった。 「しかしお前達、一番長い英単語はなんだっていうなぞなぞはよく覚えてたなあ」 「先生、英語もああやって面白く教えてくれれば簡単に覚えられるよ」  みんなが男子のその言葉に笑った。 「答えは『SMILES』」 「SとSの間が1マイルもあるからでしょ!」  再びみんなが笑った。 「これはなぞなぞだからな。と言うか、これは引っ掛けじゃなくて、先生がみんなに点をあげた問題だ」  その問題は、いつだったか先生が余談として話したことだった。こういうことはみんなしっかりと記憶に留めていた。 そういうことから、誰かがさっき言ったように面白おかしく授業を進めれば、本当に苦も無く勉強が出来てしまうと思った。 「ただ、一人だけこの答えを書かなかった生徒がいる」 (え?) 「じゃあやっぱり百点じゃないじゃん」  クラスの空気が一転して重くなった。私も男子の一人が言ったそのことを同時に思った。 「いや、正解だったよ。それは本当に一番長い英単語だったからね」  先生が苦笑いをしているように私には見えた。 「影山が『珪性肺塵症(けいせいはいじんしょう)』という45文字のスペル(PNEUMONOULTRAMICROSCOPICSILICOVOLCANOCONIOSIS)からなる単語を書いていた。これが本当の意味での正解だからな」 第2章 小枝子 「あ! 喧嘩だ」 窓際の席に座っていた石井君が急にそう叫んだ。数学の授業をしていた岡田先生も、その声に教壇から降りて窓から校庭を見た。私達もそれに続いて窓の方に近づいて外を見ると、校庭の真ん中で誰か男の子二人が取っ組み合いをしているのが見えた。 「誰だあいつ?」 「4組の相川じゃない?」 「またあいつか!」  その声を聞いて先生がそう言った。その相川君は私達の学年で一番乱暴な男子として有名だった。それは学校の中だけに留まらず、他の学校の生徒とも揉め事を起こして、警察から学校に連絡が入ったこともあった。だから私は彼の存在は知っていたけど、その存在を極力頭から消していた。 例えば、廊下のそこに彼が立っていると、そこは通らず迂回したし、その気配を感じられると、目には入らないようにそっぽを向いていた。私は彼の事が怖かった。怖かったのは私だけじゃない。クラスのみんなも、そして学校中のみんなも、彼のことが怖かった。だからみんなも私と同じように彼と接していた。 「あいつじゃ、しょうがないよ」 「でもあいつと喧嘩してるの、あれ誰?」 遠くからでよくわからなかったけど、相川君と喧嘩をしていた人は、うちの学校の制服とは違った服装に見えた。気が付くと、私達のクラスだけではなくて、他のクラスの生徒も窓から外の二人を眺めていた。その時、彼と喧嘩している人の手元が太陽の光を受けてキラっと光った。 「あ、相手が何か持ってるぞ!」 「え?」 「今光ったよ」 「ほんと?」 「うん。光った」 「僕も見たよ」 「凶器?」 (凶器って?)  私はその言葉に怖くなってしまった。 「先生、ナイフじゃない?」 「ナイフ?」  みんなが一斉に岡田先生の方を向いた。 「先生、やばいよ」 「先生、見に行ってよ」  先生は明らかに動揺していた。 「うん。わかった。今職員室に行って他の先生達を集めてなんとかするからな。だからお前達はここでおとなしく自習をしてるんだぞ」  先生の目が泳いでいた。私は早くその喧嘩を止めて欲しいと思った。しかし、岡田先生は、ただおどおどしているだけで、一向に教室から出て行こうとはしなかった。 そこへ隣のクラスで授業をしていた担任が入って来た。 「岡田先生、誰ですか、外で喧嘩しているのは」  私達は担任が入って来たので、一斉にそっちに向かって叫んだ。 「先生、相手がナイフを持ってるんです!」 「早く止めてください!」 「刺されちゃうよ!」  みんながいきなり大声で叫ぶので、担任はびっくりした顔になった。 「隣のクラスからは目の前の木が邪魔で見えなかったけど、そうなんですか岡田先生? 相手はナイフを持ってるんですか?」 「え、まあ、はっきりしないんですが、生徒は凶器が見えたとか……」  はっきりしない岡田先生に呆れて、担任が教室を飛び出そうとした時だった。 「あ! 影山だ」 「影山だ!」  みんなはその声に反応して、一斉に窓に走り寄った。私もかなり遅れてだけど、窓から外を見た。すると、元々いた二人のところに、一人の男子が走って行くところだった。そして二人と対峙した後、相川君の相手が影山君に飛び掛かったかと思った瞬間、影山君に投げ飛ばされて、そこでその喧嘩が終わった。影山君が相川君と並んで投げ飛ばされた人の前に立っていると、そこにジャージを来た先生が数人駆けつけて行った。  後で聞いた話だと、相川君が学校をさぼってゲームセンターに行ったところを高校生にいきなり声を掛けられてゆすられたということらしい。相川君がそれを無視してその場を立ち去ると、相手は学校まで追い掛けて来て、いきなり殴って来たらしい。そこで相川君が応戦しようとしたら、相手がナイフを出して来たところを影山君が助けに現れたのだった。 相川君は手に怪我をしていた。先生達も駆けつけてはくれたけど、その前に影山君の助けがなかったら、大怪我をしていたかもしれないと担任が言っていた。 「あんなやつ、いつもみんなを脅してるから、いい薬になったんだよ」 「これで少しは大人しくなってくれるといいけどね」  みんなはそんな話をしていた。みんなは相変わらず相川君に厳しかった。それはその後も相川君の乱暴な振る舞いが変わらなかったからだった。だから中にはあの時相川君が刺されて、入院でもしてくれれば良かったと言う生徒もいた。しかし、私は相川君の近くに影山君がいる時は決して乱暴なことはしなくなったことを知っていた。相川君の姿を見ても、近くに影山君がいる時は相川君を無視せず、普通に彼を認識出来たし、そして自然に彼の横を通ることが出来るようになった。 第3章 小枝子 私達の中学では、2年生から3年生になる時はクラス替えがなく、担任も変わることはなかった。それが私の時だけ、私のクラスだけ担任が変わった。 クラスのみんながそれを知ったのは、2年生の春休みに入る直前だった。担任の円谷先生は、終業式の前日のホームルームでそのことを私達に話した。クラスのみんなは一斉に「ええ!」という声を上げた。       先生には漢字テストで散々苦しめられたけど、それは私達のためだった。いま予備校の難しいテストでも漢字の読みは勿論のこと、書き取りでさえ苦しむことは一切なくなった。 これは本当に円谷先生のおかげだった。その先生が不安な受験が終わるまで国語の授業をしてくれるということが、私には―私だけではなくてクラスのみんなにだって、心の強い支えになっていたのに、私は何か裏切られた気がした。途中で投げ出された感じがした。円谷先生は島の中学に移るという話をした。その島には自分がお世話になった校長先生がいる中学校があって、ずっと前からそこへ来てくれないかと誘われていたということだった。本当は去年の今頃そっちへ行くはずだったのだが、どうしても後1年、この中学に残ってくれるように頼まれて、そしてもう1年だけ、この中学にいることになったらしい。   しかし、1年生の担任になるはずだったのが、どういうわけか2年生の担任になってしまい、2年生の担任になれば、そのままそのクラスが卒業するまでは面倒を見るのがこの学校の慣わしだったので、先生はやられたと思ったらしい。そして実際、このクラスを受け持ってみると、時間が経つにつれてクラスのみんなに対する愛着が日増しに強くなって、どんどん別れが辛くなってしまったということだった。そして今は本当にこの学校を離れるのが嫌になってしまったけど、島の校長先生が体を壊してしまって、どうしても手足になって動いてくれる人が必要だということで、改めて円谷先生が島へ来てくれるようにお願いされたということだった。出来ればこのクラスごと島に連れて行きたいけど、それは出来ないことだから、どうか先生一人だけが島へ行くことを許して欲しいと先生は最後に言った。  私と女子の数人は先生を送る会を絶対やりたいと提案した。ある女子はそのことを親に言って、PTAでそれを主催してくれるように学校に掛け合って欲しいとお願いしたらしい。しかし、そういうことは一切して欲しくないという話を円谷先生から既にされていたようで、それが実現することはなかった。  私は最後の最後まで来て、本当に先生に見放された気がした。先生がどうして私達の厚意を踏みにじるのかがわからなかった。私はそう思うと悲しくなった。円谷先生には幾度か怒られたことがあった。しかし、それは全て先生の私に対する思いやりだと思っていた。思いやりこそが人間として大事なことだと、先生からは教えられた気がした。それが今、先生が私達の思いやりを無視して、思いやりのない行動を取っていることに、私も、そしてみんなも唖然とした。最後の先生のこの仕打ちは酷いと思った。先生は私達に、先生への感謝の気持ちを述べる機会も許してくれなかった。先生ありがとう、という言葉も私達に禁じた先生は冷酷な人だと思った。  終業式の後、先生は毎回通知票を渡す時に一人一人の生徒に励ましの言葉を掛けてくれた。それで私達は今回もその言葉を期待した。それで最後となる今日に一体どんな言葉を贈ってくれるかと私でさえドキドキしていた。 ところが、先生は今回に限って、特別みんなに声を掛けることはしなかった。それで私は、自分の番の時に先生を睨みつけるようにして先生の顔を覗いた。すると先生はうつむいたままで、目も合わせることもせず、通知票を差し出すだけだった。TV番組の熱い先生ほどではなくても、何か一言くらい声を掛けてくれたっていいのにと、私は悲しくて、情けなくて、すっかり先生に呆れ果ててしまった。 「それではみんな元気でな。受験頑張れよ。遠くから応援してる」 (何が遠くからよ。他人事だし)  先生が最後にそう言って教室から出て行こうとすると、数人の女子が先生を取り囲んで花束をあげた。私は最早先生には興味がなかった。その女子達にも、先生から捨てられたのに、未練がましく花なんかあげて馬鹿みたいだと思った。 「じゃあ私帰るね」  私は誰となくそう語り掛けた。その声はクラスに空しく響いた。誰も私の声を聞いていなかった。田中さんも担任のところへ駆け寄っていた。私は彼らには構わずさっさと帰ることにした。その時だった。いきなり後ろから声を掛けられた。振り返るとそれは影山君だった。なんだろうと思って緊張した。 「掃除して行けよ」 「え?」  クラスの大掃除は昨日終わったはずだった。だから今日の終業式に掃除なんてしない。 「昨日さぼったの?」  私の後ろから里美が笑いながら影山君に言った。 「どこの掃除? 教室はやらなくていいんだよ」 「いいのよ小枝子、影山君は掃除をさぼった罰でやらされるんだから」  私はいつも強引な里美にそう言われて、そして強引に腕を引っ張られて、そしてそのまま教室を連れ出された。しかし終業式の日まで、いくら罰とは言え掃除をやらせるなんて一体どの先生の言いつけだろうかと気になった。 「里美、どこで罰当番しているかだけ見て行こうよ」 「えー、悪趣味だなあ」  私は本当は里美よりも強引なのかもしれないと思って、それで影山君の後を里美と二人でつけることにした。きっとトイレ掃除だと思った。こんな日の罰当番なんてそのあたりが相場だと思った。しかし、彼はその予想を裏切ってそのまま下駄箱へ行くと靴を履き替えて校舎の外へ出て行ってしまった。 (あれ? 罰当番もさぼっちゃうの?)  私達は慌てて靴を履き替えて彼の後を追った。すると、彼は校庭の隅に設置された倉庫の方に歩いて行って、そこから竹箒を取り出し、そしてそれを片手に持つと正門のところに行って掃除を始めた。 (正門の掃除だったんだ) 「きついね」  私が彼をぼーっと見ていると、里美がそう言った。 「え?」 「だって、さらしものじゃない」 「あ」  確かに今日は全生徒が定時で帰宅する数少ない日である。そんな時に正門のところで掃除なんかさせられたら、それはみんなの目に必ず止まることになる。しかもそれが何かの罰でやらされているということは一目瞭然である。私はいくらなんでも酷過ぎる罰だと思って、彼に深く同情した。 「誰の指示かわからないけど、きつい罰当番だよね」  私は里見のその言葉を聞いて、それはうちの担任ではないかと思った。こんな人の心を踏みにじるようなことは、うちの学校では担任しか出来ないことだと思ったからだった。しかも、先生は既にうちの学校の先生ではない。辞めて、私達を捨てて、島に行ってしまうんだから、もう私達の先生ではないと思った。そしてそう思ったら、こんなことはすぐに止めさせたいと思った。校長先生に直訴して、すぐに彼をこの罰当番から解放してあげなくてはいけないと思った。  その時、担任が正門を通った。私は固まった。私の目は担任と影山君の二人に止まった。担任が影山君のところに近づいて何かを言っているのが見えた。 (なんだろう?) それに対して影山君が下を向いたまま何か返事をしているようだった。 (何を言ってるんだろう?) そして担任はその場を数歩離れた後、急に何かを思い出したかのように再び影山君に歩み寄って、そして右手を差し出した。 (何?) すると、影山君も下をうつむいたまま同じように右手を差し出して、二人は握手を始めた。 (どういうこと?) それで担任はまた彼から離れて行ってしまった。 「一体なんだったんだろう?」  その様子を見ていた里美がそう言った。それで私は思ったことを一人二役で演じてみた。 「しっかり掃除しろよ」 「はい」 「ここで先生一旦離れる。そしてまた戻ってくる」 「お前の更正を先生は願ってるからな。そう言って先生が握手を求める」 「はいと言って影山君が手を差し出す」  私は里美に「どう?」という顔をしてそれを終えた。 「そんなとこかな」  先生がいなくなると、影山君がその掃除をすぐ止めた。私が校長先生に言わなくても、彼ならそんな罰当番くらい、一人でかわせるんだったということを思い出した。 (先生が来るまで、掃除の振りをしてたのね)  私達はそのまま笑って帰宅した。 第4章 小枝子  3年生に進級すると、始業式のホームルームに校長先生が新しい担任を連れて現れた。校長先生は、本来なら2年生の担任がそのまま3年生の担任になるところ、それが叶わずにみんなには、いらぬ心配や不安を与えてしまって申し訳なかったと話をした。私はあんな先生が引き続き私達の担任のままだった方が、よっぽど不安で心配だと思った。それから新しい担任は、前の担任の円谷先生がとても素晴らしい人だったので、自分では行き届かないことが色々とあるかもしれないけど一緒に頑張って行きたいという話をした。  その時クラスの一人が、前の担任はその後どうしているのかと校長先生に尋ねた。私はいらぬ質問だと思った。しかし、他のみんなも口を揃えて校長先生にそのことを教えて欲しいと言い出したので、それで仕方なく校長先生はそのことをしゃべり始めた。 「先生は島でしっかりと先生を続けられていますよ」 「島って新島ですか?」 「そうです」 「え? 私は八丈島って聞いたよ」 「誰から?」 「親から」 「私は利島だって」  校長先生が慌てだした。 「みんな色々と噂が飛び交っているようだけど、先生はしっかりとそこで教鞭を取られているから心配しないように」  私は誰が心配などしているものかと思った。だからそんな話は早く終わりにして欲しいと思った。その時だった。隣の影山君がさっと手を挙げた。 「校長先生、嘘はやめてください」 (え?) 「嘘って?」 「僕、先生方が親達と話しているのを聞いてしまったんです」 「何を?」  明らかに校長先生が動揺しているのがわかった。 「僕、罰当番で会議室の隣りの部屋を掃除してたんです」 「いつ?」 「円谷先生の話をみんなでしていた時です」 「何故そんな時にそこの掃除を?」 「他の学年の先生の罰だったので、その日そこでそういう会議が行われることを知らなかったんでしょ」 「……じゃあ君は聞いてしまったのか?」 「はい」  そこで校長先生は沈黙した。新しい担任は何の話かという顔をして私達と校長先生を交互に見ていた。私もなんの話をしているのだろうと思った。 「誰かにそのことは言ったかね?」 「いいえ」 「そうか。でも君が知ったということは、いずれみんなにも知れてしまうだろうね」  先生、何の話ですか? という声がクラスから湧き出した。 「実は円谷先生のことですが……」  クラスのみんなは、「え?」という表情になり、そして校長先生に注目して静かになった。 「円谷先生は亡くなられました」 (!)  その言葉が発せられた後、クラスが大きく揺れた。 「先生は島へ行かれたのではなく、亡くなられました」 「どうして?」 「なんで死んじゃったの?」  校長先生はそれらの質問には答えずに、クラスが再び静かになるまで待っていた。女子の中には既に泣き顔になっている子もいた。 「円谷先生がみんなが3年生になる前に辞めたのは病気のためでした。先生が君達を受け持ってすぐの健康診断で余命1年だという宣告をされたのです。先生の健康のために暫くお休みをされてはどうかという話もしましたが、それでも半年くらい延命できるだけだということでした。それで先生は自分の最後の教え子に君達を選んだのです」  周りの子が泣き出した。 「ただ、君達は一番難しい時期でもありました。特に受験を迎える君達は、その親御さんにとっても神経をすり減らす時でもあったのです。それで円谷先生の病気のことはPTAの会議で秘密にすることに決めたのです。その時に君はその話を聞いてしまったのですね」  影山君が頷いた。 「どうして教えてくれなかったんだよ!」  影山君にそういう声が浴びせられた。 「言えなかったのでしょう。それはみんなのことや円谷先生のことを考えれば言えないと思います。寧ろそのことを一人胸の内に秘めておかなくてはならなかったことの方がずっと辛かったと思いますよ」 (でも教えて欲しかった) 「円谷先生はみんなに色々と言い残したことがあると言ってました。ご自分の死を前提にして、少しでも多くのことを残したかったと思います。でもそれを言ってしまったら、決してみんなにとっては、良いことにはならないと思ったのでしょう。死んで行く人の言葉はあまりに重いからです。だから何も語らずに去ってしまったのです」 (それでも先生に何か言って欲しかった) 「先生は、最後にみんなに通知票を配る時が本当に苦しかったと言ってました」 (あ) 「先生は涙が出そうで、それでみんなを見られなかったそうです。勿論、声を掛けることも出来なかったそうです。それが恥ずかしかったと言ってました」 「なんか先生おかしかったけど、お別れになるからかなって思ってた」  前の席の沙耶がそう言った。 「先生は病院で亡くなる少し前に私に手紙をくれました。そこには自分の死を決して生徒には知らせないで欲しいと書かれてありました。それでみんなにはそのことを伝えることが出来ませんでした」 「それは僕たちが先生に嫌われてたからなんですか?」  誰かがそう言った。それは私も聞きたかったことだった。 「いいえ。それは本当にみんなが先生から愛されていたからです。みんなはまだまだこれからの人だからです。円谷先生は、自分のことでみんながつまずいていてはいけないと思われたのでしょう。そして若いからこそ、つまずきやすくもあるみんなを心から心配したのです」 (亡くなった人の言葉につまずく?)  その時私は影山君の罰当番のことを思い出した。 「罰当番!」  そしてそれが思わず声になった。 「罰当番?」  周りの子が私を見た。その向こうに校長先生の目もあった。 「あ、影山君の罰当番ね」  里美が私を見てそう言った。 「そういえば、君が影山君だったね」  校長先生が影山君が誰だかわかって、少し笑ったように見えた。 「円谷先生は君にはばれていたんじゃないかってその手紙には書いていました。でも、彼ならクラスのみんなにばらすことはないだろうって、信頼をしてるとも書いていましたよ」 (え?)  みんなが影山君に注目した。 「そして円谷先生が亡くなった後、影山君が敢えてばらすようなことがあっても、私にそのことを叱らないようにお願いしますとも書いてありました。今日、全くその通りになりましたね」 (どういうこと?)  クラスのみんなはどうゆうこと? とお互いに囁きあっていた。影山君は黙ったままだった。 「円谷先生を正門で見送ったそうですね? しかも罰当番の振りをして」 (え!) 「先生は、『こんなところで何をしてるんだ?』と声を掛けたそうです。こんな日にそんなところの掃除を何故やっているのかと思ったそうです。そしてそのまま立ち去ろうとしたところ、終業式に罰当番なんてあり得ないと気が付いて、それでまた君のところに戻ったそうです」  それは私と里美が見ていたあの光景そのものだった。 「そして先生はありがとうと言って握手を君に求めたそうです。そうだったんですか?」  影山君はこくりと頷いた。 「先生は涙が止まらなくなって、そのまま速足で君の前から立ち去ったそうです」  校長先生はそこまで話をすると、突然教室を出て行ってしまった。校長先生の目に涙が光っていたように見えた。後には沈黙が残った。しかし、それは幸せに満ちた静けさだった。思いやりが大切だと言った円谷先生の教えが今私達に穏やかな気持ちを残してくれた。 「円谷先生いい先生だったね」  誰かがその静寂を破った。しかし、それは耳触りの良い言葉だった。私もその通りだと思った。そして影山君、彼は素敵な人だと思った。 「影山君は円谷先生のこと好きだった?」  その日の帰り際、後ろの席の里美が急に後ろを振り返って、私の隣りの影山君にそう話し掛けてきた。私は里美のその行動力に驚いた。私も彼がどうして終業式の日に一人先生を見送ったのか、その理由が知りたかったけど口に出しては聞けずにいた。 「だって、影山君に先生冷たかったじゃない」  そう、円谷先生は特に影山君に冷たかった。それはどんな理由があったのかわからないけど、何かにつけて先生は彼に厳しい仕打ちをしていた。だから終業式のあの日もきっと先生が彼に罰当番をさせたのだろうと思った。しかし、それは影山君が自主的に先生を見送るためだったと知って私は驚いた。  影山君と円谷先生のトラブルは色々とあったように記憶している。例えば、こんなこともあった。それは2年生の夏休み前の頃だった。円谷先生が突然大きな声を出して影山君を怒鳴った。みんなは突然の事態に呆然とした。 「影山! 何を見てるんだ!」  彼は窓から外を見ていた。 それだけのことで怒られた彼は、驚いた顔をして先生を見ていた。 「俺の授業がそんなにつまらないか?」  影山君もみんなもあまりの先生の剣幕に固まったままだった。 「お前には教室にいて欲しくない。出て行け!」  先生はそう言って強引に影山君を廊下に連れ出した。私はたかが窓から外を見ていただけでどうしてあんなに怒られて、そして外に出されたのかわからなかった。それから先生は廊下に出てもまだ彼に怒って何かを言っていた。そして先生だけが教室へ戻って来ると、廊下で突然駆け出す音がした。それは影山君だとすぐわかった。それから少しして校庭を駆けて行く影山君が窓から見えた。私はその姿を暫く目で追っていた。 「よそ見してると怒られるよ」  後ろの里美が背中を突いてそう言ってくれた。 (あ、先生に怒られる) 私はそう思って教壇の先生を見ると、先生も私のことを見ていた。でも先生は私を怒ることはしなかった。私はその時、先生は影山君にだけ敵意を持っていると確信した。 「あの時、影山君何を言われたの?」 「あの時?」 「うん。廊下に出されて、そして校庭を走って行かされたでしょ?」 「いつの話?」 「2年生の夏休みの少し前、影山君が外を見ていて、先生がいきなり怒りだした時があったでしょ?」 「ああ」 「言いたくない?」 「そうじゃないけど」  影山君は反応がにぶかった。もしかしたらあまり物事を気にしない性質なのかもしれないと思った。だから先生の仕打ちなんて一々覚えていなかったのかもしれなかった。あの時も家に帰れとか言われて、それで走って行ってしまったのかもしれないけど、そんなことは忘れてしまったのだろうと思った。 「家に戻れって言われたんだよ」 (やっぱり) 「そんなこと言われたの?」 「ああ」 「授業中に外を見ていただけで?」 「ああ」 「酷いよね」  その時彼が笑った。 「僕、泣きながら家まで走ったよ」  私はその言葉を聞いて彼が可哀想になって来た。 「違うんだよ」 「え?」 「嬉しくてなんだ」 (嬉しくて?) 「先生に背中を押されたんだ」 「どういうこと?」 「僕の母は離婚して別の男の人と一緒に暮らしていたんだ。母は僕を連れて行ってはくれなかった。だからずっとそれを恨んでた。でもあの日、学校に母の新しい旦那さんから連絡が入ったんだ。母が倒れたって。でも僕は僕を捨てた母のことはどうにでもなれと思った。だからその連絡は無視したんだ。でも円谷先生は、もし行かなかったらきっと後悔するぞって、廊下でそう言ってくれたんだよ」 「え……」 「母の最期には間に合わなかった。でも行って良かったと思ってるよ。だから先生にはとても感謝してたんだ」  第5章 小枝子 夏休み前の或る日、私が図書委員の仕事で放課後図書室に残っていた時に、影山君が血相を変えて飛び込んで来た。そして、私の手をいきなり掴むなり、物凄い勢いでそこから引っ張って行った。 (え? なに?) 私は一体何が起こったのかわからなくて、彼の凄い勢いに何も言葉を発することが出来なかった。やがて私達は学校を出て、通学路を通って、そして、うちの近くまで来た。そこでやっと彼が走るのを止めると、息を切らしながらしゃべってくれた。 「君を捜したよ。お母さんが交通事故に遭って、すぐ戻れって学校に連絡があって。僕、今日の日直だから」 家の前では祖母が私を待っていてくれた。祖母が私に手を差し伸べると、彼は私の手をぱっと離した。そして、祖母に軽く会釈をすると、そのまま凄い速さで行ってしまった。 「小枝子、鞄も何もみんな学校に置いて来たのかい?」 私はそのことを祖母に言われて初めて気がついた。 「とにかく、中にお入り」 「うん」 幸い母の怪我は大事には至らなかった。しかし、今日は念の為、一晩病院に泊まることになったということだった。私はそれを聞いて、とりあえず安心した。明日帰って来るのだったらと、今日は病院に行くことをしなかった。 「それにしても、おばあちゃんが学校へ連絡をしたら、小枝子はあっという間に帰って来たね」 「うん」 「さっきの子が小枝子を見つけて連れて来てくれたんだね」 「うん」 私は本当に彼が必死になって私のことを捜してくれたんだと思った。それで翌朝、私は彼にお礼がしたくて、彼が登校して来るのを今か今かと教室で待った。すると彼は始業ぎりぎりになってやっと登校して来た。 「昨日はありがとう」 そう私が言うと、彼は私の緊張した感じとは逆に、黙って平然と頷いただけだった。 (お母さん大丈夫だった?) (心配したよ) (君の居場所がわからなくて学校中捜し回って、やっと見つけたんだよ) (よくあの場所がわかったでしょ?) (君、図書委員だったでしょ。だからもしかしてあそこかなって) そんな彼の言葉をずっと頭の中で期待していたけど、彼はそんなことは一言も言わずに私の前を行ってしまった。 夏休みが始まると、私は受験の為に近くの塾に行くようになった。塾が終わった後、友達とコンビニで道草をするのが楽しみになった。当然それで帰宅時間が遅くなった。私は、みんなと一緒だから大丈夫、そう言って親の忠告を聞き流していた。 私はその日、一人だったにも関わらず、いつものように塾の後に、そのコンビニで道草をしていた。そしてついマンガに夢中になって、すっかり帰宅時間が遅くなってしまった。私はそのことに気が付いて、慌ててお店の外に飛び出すと、そこに自転車に乗った数人組がちょうどやって来たところだった。 彼らは、見るからにいわゆる「不良」という感じで、私は何か金縛りにでもあったようになって、その場を動けなくなってしまった。すると彼らは私に近づいて来て、お金を貸してくれと言って来た。 「くれって言ってるんじゃなくて、貸してって言ってるんだから」 彼らは次々に私に言葉を浴びせて来て、私はもうかなり追い詰められていた。そして仕方なくバッグから財布を取り出そうとした時だった。いきなり遠くから声がした。 「なんだよ。そこにいたのかよ!」 私がその声の方を見ると、それは影山君だった。 「捜したぞ。親父が呼んでるからすぐ帰るぞ!」 彼は私にそう言って素早く近づいて来ると、私の手を強引に引っ張った。私は、あっと体が宙に浮いて彼に引き寄せられた。すると不良達の一人が待てという素振りをした。 「うちの親父、ちょっと危ないんだよ。行かないと大変なことになるよ」 すると彼はそう言って、彼らが取り囲む中を堂々と私を連れ出してくれた。それから彼らが見えなくなるまで彼はずっと無言だった。そして、もうここまで来れば大丈夫というところになって、彼は急に笑顔になって大声で笑い出した。 私は怖くて涙が出そうだった。でも、彼のその笑顔と笑い声で気持ちがぐっと落ち着いた。 「ちょっと汚い言葉だったけど、あいつらにはああいう言葉遣いじゃないと通用しないから」 私は、私を捜してくれてありがとうと心の中で感謝した。 第6章 小枝子 それは秋の文化祭の時だった。私達のクラスはどうしてそんなテーマの催しになったのか、日本の有名なお寺の紹介をするということになった。男子はそのテーマについて面白くないとか、地味だとか文句を言い出して、なかなか作業に協力をしてくれなかった。 「どうしてこんなテーマに決まっちゃったのかな」 「変えたいよね。変えられるんなら」  そこに呆れたという顔をしてクラス委員の真田さんが口を挟んだ。 「2年生の修学旅行の前に京都と奈良のお寺のことを調べたでしょ?」 「だっけ?」 「やだ、もう忘れちゃったの?」 「その時日本には有名なお寺がたくさんあるっていう話になって、じゃあ次の文化祭には全国のお寺を調べて、それを発表しようってなったじゃない」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 「もっとなんか面白いものがいいな」 「なんかって?」 「映画とかテレビ番組の研究とか」 「そうそう、それでテレビ局に見学に行ったりとか」 「いいね、それ」 「でもこれって円谷先生と決めたことだよ」  私達は円谷先生と決めたことを反故にしようとは思えなかった。それで男子も渋々全国のお寺の調査というテーマで納得をした。まず有名なお寺が候補に上がって、それをいくつかの班に分かれて調査するということになった。京都の金閣がある鹿苑寺や長野の善光寺が人気だった。しかし、私は岩手の平泉にある中尊寺の班に加わった。それはそこに影山君がいたからだった。影山君とは今まで同じ班になったことが一度もなかった。一緒のクラスになった頃は彼を遠ざけていたけど、最近は彼のことがなんとなく気になって仕方がなかった。それで思い切って彼が加わった班に私も入れてもらうと思ったのだった。 私達のテーマの中尊寺といえば、金色堂が有名だった。それで特にこの金色堂について研究をし、発表することになった。それは私が地図で平泉の辺りを見ていた時だった。 「この花巻温泉が気になるんだよね」  影山君が急に私の横に来て、そう話し掛けて来た。私は突然の出来事で息が止まりそうになった。彼を見ると、愛くるしい笑顔で地図を見ていた。 私はどう答えていいのかわからなくて、つまらない質問をしてしまった。 「温泉好きなの?」 「なんか面白い名前だなって思って」  彼はそう答えると、さっさと自分の席に戻って違う作業を始めた。 文化祭の準備は意外に手間取った。中尊寺の調査は、藤原氏三代のことや金色堂のこととか色々と出て来て、それらについても調べなければならず、やっぱり鹿苑寺や善光寺の方が良かったかなと思ったりもした。 文化祭が目前に迫って来ると、それぞれの班が夜まで作業をするようになった。私達の班はそれらの班以上に頑張らないと、とても終わりそうもなかった。それで或る日、とうとう8時近くまで学校に居残ることになってしまった。担任には6時には帰ると言ってあったので、私達の教室以外の場所は、明かりがことごとく消されていて、私達は暗い校舎の中を下駄箱まで手探りで進まなければならなかった。そのことが、何か悪いことをしているような気持ちにもなって、どことなく暗い雰囲気で校舎を出た。私は自転車通学だったので、そこでみんなとは別れた。校舎の外に出ると外は真っ暗だった。私は益々寂しい気持ちがして、校庭の外れにある駐輪場に小走りで向かった。その時だった。誰かが息を切らして、私を追い掛けて来たのがわかった。 (え? 誰?) 「捜したよ。自転車通学だったんだね」  その声は影山君だった。 「え?」 「君を捜した」 「私を?」 「うん」 「どうして?」 「うん……一緒に帰ろうと思って」 「どうして?」 「だって、帰る方向が同じじゃない?」 「うん……」  私は自転車には乗らずに、それを押して帰ることにした。それから二人は何もしゃべらずに私の家まで一緒に歩いた。そして家の玄関の前まで来ると、彼は「それじゃ」と言って走って行った。私は小さな声で「ありがとう」と言った。それが彼との最後の会話だった。 ―最後の会話―  それは影山君が急に引越しをすることになったからだった。彼が黒板の前に立って、担任の先生が彼の引越しを告げたことで、クラスのみんなはそのことを初めて知った。彼は卒業式までここに住んでいて、卒業と同時に新しいところに引越しをするということだった。みんなは楽しそうだった。私はそれに腹が立った。それは、影山君が嫌で、その彼が越してしまうことを喜んでいるのではないかと思ったからだった。でも、それは違った。それは影山君が、みんなよりも一歩早くこの中学からの旅立ちをするということを祝福していたのだった。そして、今までのこの中学での思い出を大切にして向こうでも頑張れよという、そういう笑顔だったのだ。私はそのことを知って安心した。でも、私はそのみんなの中には入れなかった。それは、私はひたすら悲しかったからだ。彼がいなくなることで何か心の中の光が消えてしまう気がしたからだった。  それから卒業式までは数日しかなかった。だからじっくり感傷に浸っている時間もなかった。やがて私達はその中学を卒業し、そしてそれぞれの高校に進学して行った。みんなにとって影山君はその中の単なる一人だった。みんなの旅立ちの中に紛れて、彼のことは特別なことではなくなった。でも私にはそれは一生忘れられないことだった。
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