1949(昭和24)年、8月29日

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   ひと月半ほど前。  遠く離れたセミパラチンスクでソビエト連邦最初の核実験が極秘裏に行われたこの日、東京は台風接近中で湿気の多い夕方だった。都内とは思えない森の中の一本道を、代用燃料の木炭エンジンを積んだオート三輪が登っている。  制帽に薄サージ地のベージュがかったカーキ色、開襟半袖というこの時代ならではの夏服姿の巡査が運転する車両の荷台には地元の警察署名が書かれ、急拵えの座席に黒ずくめの大男が乗っている。物資不足のこの時代には出動の警官を数人乗せることもあり、特に珍しくもない光景だ。  焼け野原跡のバラックや闇市の雑踏とは別世界の、鬱蒼とした緑道を心安らぐ癒しの風景と見る向きもあるのだろうが、ひぐらしの鳴く黄昏時の今は異界の魔窟への入り口にも感じられる――実際、ある意味そうだ。 「この辺りは旧華族の別邸の敷地でして。GHQ(占領軍司令部)に接収されかけたんですが、流石に便が悪いって事で早々に返還されまして」  機嫌悪く不規則になっていくエンジン音にもお構い無しに、運転手の安井巡査が荷台の木崎刑事にしきりに話しかける。  残暑の候で木立の中は木陰の快適さと濃い湿気の不快さが混在している。  安井のカーキ色をした盛夏用米軍風制服はともかく、夏生地でノータイとはいえ中折れ帽に長めのズートスーツの上下、ワイシャツまで黒ずくめの木崎は私服刑事どころか堅気の者にすら見えない。どうかすると中肉中背で三十絡みの安井が果敢にも、ならず者の大男を護送しているようにすら見える。
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