Ⅵ章

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Ⅵ章

 瀬戸珠世は時々、自分の身体の中を別の生き物が住んでいるような、不可思議な感覚を覚える。その生き物は怒りや焦燥感を抱くと目覚め、気が済むまでひとしきり体の中を暴れまわる。まさに今である。 珠樹を殺せなかった。作戦も失敗した。 珠世の体内で怪物が暴れ出す。 何故失敗した? 知らない間に護衛が居た。 護衛が居たから失敗したんだ。  本来あのパーティーでは会場を停電させ珠樹を誘拐、そして盗まれたデータの在りかを吐かせて殺す予定だった。しかし暗闇の中で珠樹を攫う前に逃げられた。きっと新しい秘書の男の仕業に違いない。どうせ秘書と言うのは建前で、護衛として珠樹と共に居るのだろう。更にパーティー会場には体術に長けた男と銃の扱いに慣れた女も居た。他にも仲間が居るかもしれない。 早めに何とかしないと珠樹を殺せなくなる。 その焦燥感が体内の怪物を生み出し、暴れさせる。  今回のパーティーの襲撃は、企業の社長や役員幹部が多く出席しており、更に個人ではなく全体を狙ったように見せかけた。私の仕業だとはバレないだろう。ただ何回も珠樹を襲撃すれば、話は別である。誰が見ても珠樹が居なくなって得をするのは珠世であると分かる。そう悟られない為に、迅速に、確実に行動するしかない。  運転手に声を掛けられ、珠世は我に返った。自宅に到着したのだ。珠世は運転手に開けて貰った扉からハイヒールの音を道に響かせ、高級アパートへと帰って行く。  とんだ一日であった。珠樹を攫ったと言う連絡を受けながらワインでも飲もうと思っていたのに。今は全くそんな気分ではない。  珠世は部屋に入ると、ソファの上に鞄を放り投げた。更に足を痛めつけているヒールを脱ぎ捨てる。深いため息をついた。 私が社長になるんだ。 アヴニールを継ぐ。 お母さんの遺言。  珠世は立ち上がり一歩歩くと、不思議な感覚がした。先程までハイヒールを履いており、踵は地面よりも高い位置にあった。それが今や一歩歩くと、足の指から踵まで足裏の全てが地面に接した。奇妙な心地を味わいながら、珠世はベッドの横に飾っている母親と幼い自分が映った写真を見る。  三十代の母親と幼少期の自分。二人とも笑顔で、母親は珠世を背中から抱きしめている。  母親は珠世が八歳の時にこの世を去った。病に伏せった母は最期にこう言った。 “珠世。貴方がアヴニールを継いで、人種差別で働けない人達に幸せな未来を創るのよ” この言葉は珠世にとっての人生の指針となる。 母親に託された願い。それは私が引き継がなければいけない。  そう思って今まで努力をしてきた。学生時代は必至に勉学に励み、アジア人の差別を受けても決して屈しなかった。大学生になってからは日本に留学して、経営学を学んだ。夏休みはフランスに戻り、父の育三の横でインターンのように仕事を学んだ。更に情報屋としても、なるべくパーティーにも参加して顔を広くし人脈を広げた。 全てはたった一つ。 会社を継ぐ為である。  周囲を納得させ、準備を重ねて来た。ただ会社を継いで終わりではない。会社を“経営”出来なければ意味がない。道は定まっていた。後は時間と共に歩いて行けば辿り着けたはずなのに……。その道はまるでブルドーザーか何かで乱暴に壊され、尚且つ迂回が出来ないように立ちふさがった。そのブルドーザーこそ、珠樹である。  早い内から珠樹には社長になるのを諦めさせるべく仕向けてきた。具体的には自分の家での立ち位置を思い知らせる。八歳も年上と言うことで珠世は珠樹を下僕のように扱った。次第に向こうも珠世が上下関係では上に居ると学び、極力争わないように生活をしてきた。父親が娘ではなく息子に家業を継がせるのではないかと気が気ではなかったが、珠樹は社長にはならないと明言した。それどころか初めは一般企業に勤めると言いだした。それはさすがに止められたが、珠樹の配属先は経理で一般社員として働いた。もう脅威はない。  社内も取引先の誰もかも、アヴニールの二代目社長は珠世になると信じて疑わなかった。 しかし。 突然の珠樹の宣言。 しかもそれを喜び、社長に任命した父親。 珠樹を推薦した役員。 全てが憎い。 道を塞ぎ、進路を閉ざされた。この道を歩くために重ねた努力は水の泡となる。更に珠樹は追い打ちをかける。  珠樹には諦めて貰う他ない。そう思い会社の会議室に呼び出した。 「ねえ珠樹。どうして急に社長をやりたいと言い出したの」  珠世は世間話も一切せずに単刀直入に聞いた。 「……」  珠樹は黙って大きな瞳を珠世に向ける。 ああ、うざい。 目の前の男のこう言うところが昔から大嫌いである。  珠樹は質問をしてもすぐに返答はせずに数秒黙り込む癖がある。その時はいつも大きな瞳を揺らがせる。珠世は切れ長の目で猫の瞳のように目尻が吊り上がっている。対して珠樹はぱっちりとした二重で人形のような瞳である。同じ父親でも母親が違うと、こうも外見が異なってくるのかと痛感する。だからこそ、半分同じ血が流れていても弟のように思えなかった。愛情も湧かない。珠樹は珠世を脅かす存在だからだ。 「……俺が継いだ方が、良いと思ったから」  珠樹は遠慮がちではあったが、きっぱりと言い放った。 「どう言う意味?」 「俺は姉貴が社長になる為にどれだけ努力してきたのか知ってる」  私の質問に答えろ。珠世の中で怪物が目を覚ます。 「だけどさ、アヴニールは多くの人の人生に影響を与える。社会で生きる上で仕事は重要なものだ。俺達が紹介した職場で才能を生かせる人もいたり、将来共に出来る相手と出会ったり、逆に仕事に忙殺されて今までよりも生きるのが辛くなったりする人も居るかもしれない」 「何が言いたいの?」 「とにかく俺達の仕事は他人の人生を大きく左右するんだ」  珠樹は初めて力強い視線を珠世に向ける。いつも姉の顔色を窺っている弟の表情ではなかった。 「何を当たり前のことを言っているの」 「じゃあ何でこんなことするんだよ」  珠樹はそう言うと、スマートフォンの画面を珠世に見せる。 いきなり何? 珠世は高をくくっていた。その画面には珠世が会社の誰にも明かしていない秘密が映っていた。珠世は久しぶりに心臓を鷲掴みにされたような、目の前が真っ白になった。 「今の姉貴じゃ、アヴニールを信用して頼ってくれた人達の未来を不幸にする。だから俺が継ぐ」  珠樹が生まれて二十六年。珠世は初めて彼に反抗された。 「このことは絶対に誰にも言わない。俺達だけの秘密にする。だから、身を引いてほしい。それが会社の未来の為だと思う」  そう告げると、珠樹は珠世の返事も聞かずに会議室を後にした。雷に打たれたような衝撃を味わい、珠世はただ立ち尽くすしかなかった。 珠樹は何故あのことを知っている? どうやって知った?  私は珠樹に脅された?   あんないつもぼんやりして、何も考えていないような男に?     私が、負けた? 疑念がどんどんと湧き上がる。その疑問を珠世の体内の怪物が食らいつくす。 「……殺そう」  あらゆる疑念を晴らす一番の方法。珠樹の存在そのものが鬱陶しかった。脅威になりえた。それが今、憎い弟から“敵”へと変わった。排除なんて生やさしすぎる。葬ろう。  私の社長になる道を妨害だけでなく、通行止めにした。あいつが私の人生を狂わせた。お母さんが死んで、すぐにやって来て。 珠樹が生まれた時、八歳だった珠世はよく覚えている父の言葉。 “元気な男だ。これで安心して会社を継がせられる” そして珠樹の宣言に父は喜んで任命した。 私は? 女だから認められないの?  父親を憎いとは思わない。元々会社は父が創ってここまで繁栄させたし、どうせもうじき死ぬ。 ただ珠樹はどうだ? 珠樹さえ居なければ、全部上手くいくのに。だったらもう消えてもらうしかない。こうして珠世は珠樹の殺害を決意した。  珠世の中で溢れ出す憎悪の言の葉を、部屋の窓から聞こえてきた音が止めさせた。控え目な、窓ガラスをたたく音である。  珠世はそのままカーテンを開けた。窓の外、ベランダには誰もいない。窓を開け、一歩外に出る。ベランダの端に闇夜と同化した、漆黒の礼服を着ている小早川聖が立っていた。 「いい加減、野良猫みたいな侵入方法をやめたら?」 「これが俺の性に合っている」 「神父から盗賊にでもなるつもり」  聖は何も答えなかったが、薄っすら笑ったような気がした。 「それで何? 作戦が失敗したから謝罪にでも来たの」  珠世は単刀直入に聞いた。 「それもあるが、珠樹に護衛が居ることが分かった。顔も割れている。次の作戦では必ず、上手くいく」 「貴方の抱負を述べられてもね。本当に大丈夫なの」 「ああ。問題ない」  聖は顔色一つ変えなかったが、言葉には確かな自信を感じられる。 「言い訳にしか聞こえないだろうが、暗殺ならすぐにでも出来る。だがまずは盗まれたデータを回収しないといけない。生け捕りは殺すよりも難しい」 「最悪殺しても良いわよ」 「もし珠樹が既に誰かにデータを託していたら? 珠樹が殺され、公開されてしまったらお前の立場が危うくなる」 「随分と優しいのね」  珠世は目を細めて聖を見やる。感情は読めない。ふと珠世と聖の目が合った。しかし聖はすぐに逸らした。 「こんなところで立ち話もなんだから、部屋に入る?」  この男は一体どんな反応をするのだろう。珠世は面白半分で提案をする。 「……交際していない女性の部屋に入るのは良くないと思う」  聖はぶっきらぼうに返した。珠世は笑いを抑えることが出来なかった。 「不法侵入はするのに?」 「ベランダはぎりぎり外だ」  聖は大真面目に答えるので、珠世はますますこの男を気に入った。 「じゃあこの後はどうするの?」 「予定通りだ。次で瀬戸珠樹を捕縛して、必ずお前にデータを渡す」 「期待しているわよ」  聖は頷いた。 「ところで」  珠世は静かに口を開いた。 「この間、珠樹の家に押し入ったの?」 「……」  聖は何も答えない。 「しかも何もしないで帰ったそうね」  この事は有彩からの報告で知った。作戦にない行動だったので不信に思ったらしい。 「貴方が不用意に接触したから、護衛がついたんじゃないの?」 「そうかもしれない」  聖は素直に非を詫びる。 「すまなかった」 「もう過ぎたことは良いわ。次に、確実に仕留めてくれれば」 「……そのことなんだが」  聖は一歩前に出る。珠世よりも背が高く、街灯の光が漆黒の服を纏った聖を照らし出す。 「珠樹を殺すのはやめないか」  予想外の言葉に珠世は言葉が出なかった。 「……どういう意味?」 「やはり実の弟を殺すのは、今は良くても後々後悔すると思う。データだけ取り返せれば良いのではないか」 「雇用主に立てつく気?」  珠世は負けじと一歩前に出る。 「あんたが本物の神父かどうか知らないけど、目の前に悪魔が居たらどう思う。ただそこに居て何もしていなくても、悪魔というだけで我々の敵でしょう。私にとっての珠樹は同じ存在なの」 「……分かった」  聖は己を睨みつける珠世の視線に耐えかね、承諾する。 「次こそは絶対に殺して」 「……」  珠世は怒気を含ませた言葉をベランダに残し、部屋に戻って行った。ベランダには聖が闇と共に立ち尽くしている。
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