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大好きなプリンセスのキャラクターがあしらわれた水筒を取り出して、口元に運びます。毎朝お母さんが持たせてくれるそれには、いつだってかき氷みたいに冷たい麦茶が入っているのです。どうして冷たいままなの? と訊いてみたら、その水筒は魔法の水筒だからよ、という素敵な答えが返ってきました。大人になったら、魔法使いになるのもいいかもしれません。
ごくりと飲み込んで、爽快感が身体中に行き渡るのを感じながら思わず息を吐いてしまいました。枯れてしまった花が再び蕾を咲かせるように、生き返っていきます。水筒の蓋をぱちんと閉めると、隣から視線を感じてちょっぴり驚きました。
「ごめんなさい。うるさかった?」
「……怪しいヤツに近付いちゃいけませんって学校で教わらなかった?」
「おじさん、怪しいの?」
「待って。怪しい以前に、俺一応二十五なんだけど。……そうか、小学生からしたらおじさんなのか……」
「ごめんなさい。ええと、お兄さん」
二十五歳って、わたしから見たらとても大人ですけれど、なんだか悲しそうだったのでそれを伝えるのはやめておきました。わたしが今九歳ですから、つまり今までの人生の時間をまるっきりあと二回くらい過ごさないと、お兄さんの年齢には追いつけないということです。
「お兄さん、空を見ていたのでしょう? 今日はとてもいいお天気だから、眺めたくなる気持ちはわかるもの」
「……そんな、いいもんじゃないよ」
お兄さんはダラけさせていた身体を起こして、しっかりと座り直しました。手足が長くて、思わず羨望の眼差しを向けてしまいます。春に行われた身体測定では、0.5センチしか身長が伸びていなかったのです。
「お兄さんみたいになるには、やっぱりもう少し牛乳を飲まないといけないのかな……」
「……身長の話をしてるんなら、別に牛乳飲んだからって伸びるわけじゃないよ」
「え! そうなの?!」
なんと、今年一番の衝撃です。クラスの男の子たちが競い合うようにして飲んでいるものに効果がなかったなんて。これは明日、みんなに伝えてあげたほうがいいかもしれません。ああでも、ショックを受けてしまうかも。
「気にしなくても、そのうち嫌でも伸びるさ」
お兄さんは長い足を組み直して、また空を見上げました。わたしは嬉しくなって、いそいそと水筒をランドセルに仕舞います。
公園は、小さく暖かい日常でありふれていました。目の前をトコトコと歩いていく鳩さんに、風に靡く草木とお花。セーラー服を着たお姉さん達の柔らかな笑い声と、わたしと同じランドセルを背負った男の子達の騒がしい声。ありとあらゆる生命の音で溢れていて、わたしはふと、休み時間でのお友達との会話を思い出しました。
「今日ね、生まれ変わったらなにになりたいかっていう話をお友達としたの」
「……へぇ」
「わたしは、お姫様の飼い犬になりたいって言ったのだけれど……あまり賛同は得られなくて」
「まぁ、人間なんて碌でもねぇし……犬になりたいってのはいい判断なんじゃないの」
お兄さんは自嘲めいた笑いを零して、横目で私を見遣ります。わたしはお兄さんの言葉の意味を理解しようとして、なんだか誤解を招いているのかもしれないと気付きました。いいえ、いいえ、そういうことではないのです。
「ううん。あのね、わたし今世で目一杯人間を謳歌してやろうと思ってるの。そうしたら、せっかくだから次は違う種族も経験してみたいでしょう?」
「……あぁ、そう。まぁ俺は犬みてぇなもんだけどな……」
お兄さんは不思議な人です。だってそんなわけがないんだもの。わたしは今一度、お兄さんの頭の上から足の先までをじっくりと見てみることにしました。不躾かもしれませんが仕方ありません。そして結局、右に傾げた首を反対側にも傾げることしか出来ず、やっぱり同じ結論に辿り着きました。
「でも、お兄さんには尻尾は生えていないでしょう。お耳もおひげもなにもかも違う。一体どういうこと?」
「命令されたことにただワンワン言って、その通り従順に生きてるところ、かな」
「うーん……」
「分からなくていい。分からなくていいけど……人間ってのはな、ほとんどがそっち側に回るんだよ。搾取されて、操られて、そうやってそのまま終わるんだ」
「それは望んだことなの?」
「まさか。噛み付いてやりてぇけど、地位も名誉もない犬には首輪を噛みちぎることは許されないんだ」
わたしは言葉に迷って、少し黙り込んでしまいました。それはずいぶん、私の聞いていた話とは違う気がします。
「お父さんも、お母さんも、まゆみ先生も、わたし達には無限の可能性があると言っていたの。どんな夢でも、想い続ければきっと叶うって」
「間違っちゃいないよ。……でもまぁ、大人になるってのはそういうことだ」
お兄さんの声は冬の雨みたいに静かでした。花壇に咲く色とりどりのお花達が優雅に揺れています。わたしにとって大人になるということは、あんな風に自分だけの色を見つけることです。
わたしはランドセルをお腹の前に抱えて、少し早いですが毎日の習慣を始めることにしました。
「今日はここでお兄さんとお話できたことが、一日のハイライトになりそう」
「え?」
「お母さんとね、その日あった嬉しいことを毎日報告し合ってるの。お兄さんはなにが嬉しかった?」
お兄さんは呆気に取られたような顔をして、額に手を当てました。分かります。だって嬉しいことってたくさんあるんだもの。一つになんて絞れません。
「一つじゃなくてもいいの。例えばね……今日は給食でレーズンパンが出たの。わたし、それが大好きだから嬉しかったなぁ。あとね、昼休みにお友達とババ抜きをして勝てたのも嬉しかった! それからまゆみ先生に──」
「ふはっ」
すると突然、お兄さんが噴き出したのでわたしは訳が分からないまま口を閉じました。お兄さんはそれから緩やかな笑い声を上げて、片手でごめんなさいのジェスチャーをします。
「なんつうか、いかにも小学生らしい幸せだなと思って。俺はレーズンパン嫌いだったけどさ」
「えぇ?! レーズンパン、クラスの子にもあんまり人気ないんだぁ……でもだからこそ、嫌いな子がちょっと分けたりしてくれてね、ふふ、お得なの」
お兄さんは、笑うと数段優しい顔になりました。それは誰にでも当てはまることかもしれませんが、でも、お兄さんを笑顔にできた理由がわたしにあるのなら、それはとっても光栄なことです。わたしも少し、ニヤリと笑みを浮かべました。
「お兄さんって、案外お口が悪いんだ」
「そっちこそ、ずいぶん高尚なことで」
「……コショウ?」
「コウショウ。上品で……まぁ、お姫様みたいってことだよ、小学生」
それはとても素敵な響きでしたが、わたしは敢えて頬を膨らませてみせました。ぴょん、とベンチから降り立ってお兄さんの目の前へ移動します。
「めぐみ!」
「……ん?」
「わたし、めぐみっていうの! “小学生”はただの呼称でしょ」
「……ふは、はいはい。めぐみちゃんね」
「うん! それで、お兄さんのお名前は?」
「宮本だよ」
「……宮本、さん?」
ずいぶん珍しいお名前です。昨年のクラスメイトに宮本くんという子がいましたが、彼の場合は宮本という名字でした。だからなのでしょうか。わたしの中では宮本=名字という認識が根付いてしまっていて、そのせいで違和感を覚えるのかもしれません。だって、人に自己紹介する時はお名前を伝えるのがわたし達の間では常識ですから。
とは言え、名前というのは誰しもなにかしらの意味を込めてつけられているものですから、馬鹿にしてはいけません。わたしは大きく二回頷いて、そして公園に設置された時計の針がもうそろそろお別れしなければならない時刻を指していることに気が付きました。
「宮本さんはいつもこの時間、ここにいるの?」
「うーん……まぁ、しばしばって感じかな」
「それじゃあまたお話しましょう! いい?」
「いいけど、誰彼構わず話しかけない方がいいよ」
「分かった! ──あぁ、そうだ! 今度は宮本さんの嬉しかったことも聞かせてね!」
公園の出口でもう一度大きく手を振ると、宮本さんは呆れたように笑って小さく手を振り返してくれました。
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