めぐみの恵み

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 わたしには門限がありません。それはわたしが分別のついた人間だからであり、言うなればお父さんとお母さんからの信頼の証でもありました。  放課後になると、まずは一通りお友達と遊びます。運動場には遊具があって、教室にはトランプやUNOがあって、わたし達にかかれば無限に遊べてしまう環境です。だけれどそういうわけにもいかないので、ある程度したら解散します。今まではわたしもそのままお家に帰っていましたが、最近は一つ、ルーティンが増えました。  公園の入り口で、わたしは笑みを深めました。やっぱり今日も、とってもいい日です。  大股で走って、相変わらずベンチに座って空を見上げている彼の目の前で止まります。  「こんにちは!」  「……こんにちは」  わたしはランドセルを宮本さんの隣に置いて、だけれど自身は座らないままニコニコ微笑みました。宮本さんは怪訝な顔をしてこちらを見ています。わたしは恭しくワンピースの裾を摘んで、くるりとその場で回って見せました。  「似合ってるね」  「ありがとう! この間家族でショッピングモールに行った時にね、買ってもらったの。べビーピンクって言うんだって」  回るたび、裾がふわりと浮かびます。袖のパフスリーブがとっても可愛いくて、すっかりお気に入りになりました。  お洋服を褒めてもらえたことが嬉しくて、元々上機嫌だったのにさらに心が浮き足立っていきます。そのまま空へ飛んで行かないうちに、宮本さんの隣に腰を下ろしました。  「宮本さんは、今日はどんないいことがあったの?」  「うーん……あぁ、さっき自販機でコーヒー買ったんだけどさ、俺が買ったら丁度売り切れたんだよね」  「……それって幸せなこと?」  「勿論。例えば自分の番でトイレットペーパーを使い切ったら、何となくラッキーだと思うでしょ」  わたしはどちらかと言うと、自分が何かを得ることに喜びや幸せを感じるタイプだったので、宮本さんの言葉はまさに目から鱗でした。なるほど、そういう視点を持ち合わせてみれば世界はもっと輝くような気がします。  「そういえば、今朝学校に着くまでに一度も信号に引っ掛からなかったの。たぶん、気付かなかったけれどとっても幸運なことだったみたい」  「うん、それは最上級にラッキーかもね」  初めて会った時と比べると、宮本さんはずいぶん明るくなりました。というのも、目に見えて笑顔が増えましたし、わたしといる時は空を見上げずにしっかりとわたしの目を見てお話してくれるのです。広大な空の魅力にさえ勝ててしまえたような気がして、わたしはとっても幸せでした。  「……そういえば、初めてNOと言えた日でもあったな」  「どういうこと?」  「うん……まぁつまり、飼い主に反抗できたってことだ」  「首輪を噛みちぎったの?」  「いや……まだ甘噛み程度ってところかな。でも、俺にとっちゃ勇気が必要な行動だったんだよ」  「それじゃあ、今日はお祝いしないと!」  勇気を出すということは、とても難しくてとても大変なことなのです。だってわたしも、夜中にトイレに行くのにはかなり勇気が必要だもの。  水筒を取り出して掲げると、宮本さんは小さく笑いながら缶コーヒーを掲げました。水筒の方が大きくて重たいので、わたしは少し気を遣いながらコツンとぶつけます。  「こういう時、なんて言えばいいのかな」  「そうだなぁ──飼い犬脱却の一歩、に乾杯?」  「乾杯!」  わたしはそのまま勢いよくお茶を喉に流し込みましたが、宮本さんは缶を握ったまま口に運ぼうとはしませんでした。先程ぶつけた時にとても軽く感じたので、もう飲み終わってしまったのかもしれません。それでも付き合ってくれたのですから、宮本さんはとっても優しい人です。  「あのさ」  「なぁに?」  「ちょっと相談、してもいい?」  「もちろん!」  宮本さんは少し前屈みになって、数秒黙りました。缶が指で押されてぺこぺこと音を立てます。スクイーズじゃないのだから、きっと気持ち良くはないでしょう。  ややあって、彼はゆっくりと口を開きました。  「悩んでることがあるんだ。目の前に道が二つあって、一つは真っ直ぐ舗装されている。でもその道中には駄菓子屋もゲームセンターもなくて、退屈で面白みのない、だけれど確実に安定したゴールに辿り着ける道。もう一つはガタガタで、歩きづらい。その道の先にあるものが光か闇かも分からない。だけれどたぶん、すごく楽しい。生をまざまざと感じられる、魅力的な道だ。俺はさ、どっちに進めばいいと思う?」  宮本さんは、言葉を選びながらもしかしハッキリとそう言いました。前を見つめていた視線がこちらを向きます。カァ、とカラスの鳴く声がして、わたしは一度空を見上げてしまいました。だけれどそれが失礼な行為に当たるかもしれないと思い直して、逸らされることのない瞳をもう一度見つめ返します。  宮本さんの言っていることは、たぶんとっても難しいことです。到底わたしのような小学生に答えを出せるような問題ではないのだろうなと、彼の瞳の中に混ざる色を見て思いました。それでもわたしの意見に耳を傾けようとしてくれている、それはとても真摯な行為で、わたしにとっては喜ばしいことでした。  こういう時、わたしはやっぱり最も信頼している大人の言葉を思い出します。  「あのね、悩んだ時にいつでも思い出せるように、心の真ん中に置いているお母さんの言葉があるの」  「……なに?」  「──迷った時は、心がときめく方を選びなさい。……あの日宮本さんの隣に座ることを決めたのも、それが理由だよ」  わたしという人間の真ん中で、いつも支えとなっている言葉です。これがなければもしかしたらわたしは、イタリアの世界遺産みたいに少し傾いてしまうかもしれません。  宮本さんは深く息を吐きました。ため息ではありません。もっと温かくて、軽やかなものでした。  「俺さ、ずっと、漫画家になりたかったんだ」  「そうなの?! それはとっても素敵!」  漫画家さんとは、それはそれは素敵な夢です。わたしは興奮して思わず手を叩いてしまいます。宮本さんは少し照れたようにはにかんで、数メートル先にあるゴミ箱に缶を投げ入れました。カコン! と音を立てて缶がゴミ箱に吸い込まれていきます。お行儀は悪いですが、わたしはもう一度手を叩きました。  宮本さんが不意に声を落とします。  「ずっとさ、謝りたいことがあって」  「えっと、誰に?」  「君にだよ。めぐみちゃんに」  「えぇ?! わたし、何も嫌なことされてないよ?」  本当に心当たりがなかったものだから、わたしは頭の中にたくさんの『?』を浮かべてしまいました。もしかしたら溢れすぎて、頭の上にまで飛び出しているかもしれません。  「卑屈で、陰鬱とした“大人”を見せちゃったなぁ、と思って。だからさ、お詫びじゃないけど……うん、やっぱり頑張ってみようかな」  「つまり、歩きづらい道を進むってこと?」  「そうだよ。今度こそ首輪を噛みちぎってやるんだ」  宮本さんは出会ってから一番の笑顔を浮かべました。その顔はとてもスーツを着た大人の男の人には思えなくて、どちらかというとクラスの男の子みたいな、幼くて親しみやすいものに見えました。  宮本さんが清々しい表情でグイッと腕を伸ばします。  わたしはただひっそりと、彼の進む道の先にたくさんの甘いスイーツと、色とりどりのお花畑が待っていることを願いました。
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