契りちぎり

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 普段は母のほうが遅いから、わたしが先に夕飯を食べてしまうけれど、今日は久々に母子(おやこ)そろって箸をとった。やーこんな時間のテレビ観るの久々だわ、と母はどこかテンションが高い。  最近は、なかなか平日に母と顔を合わせて夕食を摂ることがなかった。そういう意味ではわたしの気持ちも少しくらい楽しげになったってよさそうなものだが、今日はそんな気持ちになれなかった。  ずっと訊いてみたかったことを、唇にのせるべきか悩んだ。せっかく早く帰れたのだからリラックスしてほしい……という気持ちこそあれ、わたしは今の状態のままで、この後に箸をシャープペンシルへ持ち替えることができそうにない。  なにより、わたしは毎日、悠一と一緒に学校へ行く。そして教室に入って再び「夫婦」と言われたとき、同じように(夫婦とは何か)と考えることに耐えられるメンタルを持ち合わせていない。今日はなぜかその二文字が引っかかったまま、今も喉の奥でちくちくと痛んでいる。  ひとつ気になると、あれもこれもと何もかも気になってしまうのは、自分の悪い癖だ。 「お母さん」 「うん?」 「お母さんはさ、どうしてお父さんと結婚したの」  わたしにそんな鋭いストレートを投げ込まれた母は、一瞬だけ目を丸くしていた。ある意味で当然だ。食卓を囲みながら切り出す話ではないということは、わたしもよく分かっている。それでも、母が今日いつもより遥かに早く帰宅したのは、きっとこれを明らかにするためだったのだと、自分にとってとても都合の良い解釈を信じた。だから火の玉になるくらいの勢いで、豪速球を母に向かって投げたのだ。  しかし母はそのボールを、小気味良い音と共に難なくミットの中へ収めたようだった。 「そりゃあんた、この人と家族になろう、って思ったからでしょ」 「そう思ったのは、どうして」 「なにさ、今日の(すみれ)は人生相談番組みたいなこと言うねえ」  けらけら笑いながら母は味噌汁を口に運んだあとで、引き続きニヤつきながら言った。 「菫。――あんた、彼氏とはまだ順調なの」 「なっ……」 「どうなのさ、ほれ」 「まあ……今も付き合ってるけど」 「ってことは、彼氏のことがずっと好きなんでしょ」  なんだか悠一本人に言うよりも恥ずかしくて、食べかけの野菜炒めが寝そべる皿に視線を落としつつ、わたしは「……うん」と答えた。悠一のことは好きだ。変に擦れたところがないし、だからってバカなわけでもない。一度わたしが嫌がったことは、それ以上強いてくることもない。正直、わたしにはもったいないくらいの彼氏だと思う。とはいえ、他人に譲るのは絶対に嫌だけど。 「それと同じだよ」 「同じ?」 「好きだなあ、一緒にいると幸せだなあって思うからこそ、もっと長い時間を一緒に過ごしたいって考えになるもんでしょ。あの頃の私は、この人が旦那になったら楽しい家庭になりそうだなって思ったの。あの時は間違いなく、そう信じてたんだよね。今は一緒にいないけどさ、あの人と私が役所に婚姻届を出したときは、確かにそこにはお互いへの愛情があったんだよ」  悔しいけどそういうことなのさ、と母は恥ずかしそうにぼそぼそ付け加えていた。別々に生きていくことになった今でも、一度は「一緒に生きていこう」と決意した過去は覆らない……という意味がじんわりと滲み出ている。母はもとから負けず嫌いだし、内側には忸怩たる思いがあるに違いない。  でも。 「他には?」 「なに、まだ理由が欲しいの」 「いや、夫婦になるっていう決意の裏には、他にも壮大な何かがあるものなのかなーって。なんとなく思っただけ」 「ないよ、そんなの。本当に出会うべき人って、特に意識しないタイミングで出会ってるもんだし、そういう人に対しては自然と(あ、自分はこの人とずっと一緒に過ごすんだろうな)って気持ちが芽生えてくんのよ。私にとってのそういう存在があんたのお父さんで、いろいろあって『ずっと』じゃなくなったってだけの話」  いかにもわたしの母らしい、サバサバとした答えだった。普段から、基本的には父のことをずっと「お父さん」ではなく「あの人」と呼んでいるところから考えても、離婚した今は父との間にくっきりとした線を引いているのだろう。  わたしの中にはまだストンと落ちていかないが、いずれ誰かとめぐりあったとき(ああ、こういうことだったんだ)と思える日が来るだろうか。  そう思ったとき、わたしの傍にいるのはいったいどんな人で――。 「でもさあ」と母が再び口を開いたので、わたしは耳を傾けた。
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