契りちぎり

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*  ただいま……と声は掛けても、返ってこないのは分かっていた。逆にこの真っ暗な部屋の中から返ってきたとすれば、それは異常事態ということになる。  放課後の講習が長引いて、いつもより帰ってくる時間が遅くなってしまった。制服のブレザーだけ、適当なパーカーを引っ掴んで着替えてから、夕食の準備を始めた。冷蔵庫を覗いたら、特に食材を買い足す必要はなさそうで安心した。  量は二人ぶん。わたしと、母のぶん。    母は地元の信用金庫に勤めている。仕事は窓口業務ではなく外勤営業で、帰ってくるのはいつも遅い。母の料理は好きだけれど、休日くらいしか食べられないのが残念だ。もっとも、大抵はわたしが「休みの日くらいゆっくりしないでどうすんの」と無理やり台所に立ってしまうし、しばらく食べていないけど。  わたしが小学生の頃に両親が離婚してから、父親には一度も会っていない。最初の頃こそ会いたくて仕方なかったが、中学へ上がる頃になったら不思議なくらいどうでもよくなった。思春期はもちろんのこと、父がわたしの高校卒業まで払うという約束だった養育費を渋るようになったから……というのも効いたと思う。というか母もそんなこと、よりによってわたし本人に言うかね。仕事で金勘定の話ばかりしているから、自然と口から滑り出てしまったのかもしれない。  今のところ、わたしの作った料理を食べてくれるのは、母だけだ。味の濃淡がどうこうとか、そもそも不味いとか言われたことは一度もない。母もそうしていたのだろうし、わたしもいずれそうする日が来ると思うけれど、家族以外の他人に自分の作った料理を食べてもらうというのは、とても緊張するに違いない。いずれその相手が本当の家族となって、相手の血肉がわたしの作った料理で形成されると思うと、今からもう少し料理の練習をしたほうが良いかな。その前に受験勉強をしろ、と言われれば即座に「そうですね」と返すしかないが。  結論を出す気のない考え事をしつつ野菜炒めをあおっていると、玄関ドアの開く音が聞こえた。少し遅れて「ただいま」と部屋に入ってきた母の表情は、今日はそれほど疲れていないように見える。時計を見たら、まだ十八時半を過ぎた頃合いで、母にしては随分と早い帰宅だった。 「お母さん、今日は早いね」 「たまーにね、こういう日もあんのよ。毎日机にかじりついてたら疲れるっしょ」  あっはっは、と豪快に笑い飛ばす母の笑顔がどこか悠一と重なって見えて、わたしは無意識に目線をそらした。
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