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「私、思うんだよね。あの人は、確かにろくでもないとこがあったの。だから別れたんだけどさ」
「うん」
「私があの人と出会わなきゃ、菫が生まれることもなかったんだよ。だから、あの人と過ごした時間になんの意味もなかったなんて思わないし、あの人に出会わなければよかったとも思わない。私らの間にあんたが生まれてきてくれたからこそ、過去の出来事すべてには意味があったんだって思えるから」
父は母と同時に、わたしのことも捨てた。そのことを憎いとまでは言わないが、わたしを育ててゆくことを母ひとりに押しつけたのは、きっとこれからも許すことができない。
けれど、母は父と出会ったこと、ひいてはわたしが生を享けたことに「意味があった」と言ってくれた。わたしは父と母の間に生まれた一人娘。父と母が出会わなかった世界線には、存在することのない命。
まったくの無関係だった二人がめぐりあった結果、奇跡的に意味を与えられた存在。
「ま、払うものは払ってもらわないと困るんだけどさ」
急によく研いだナイフみたいな声色になった母に、わたしは思わず吹き出してしまった。仕事でもこんな感じで融資を引き上げたりしているんだろうか。知られざる母の一面を垣間見た心地がした。
「ねえ、即座に現実へ引き戻すのやめてくれない? お母さん。わたし、ちょっと感動してたんだけど」
「あー、ごめん。まだちょっと頭が仕事モードなんだわ。ビール残ってなかったっけ?」
悪びれもせずにへらへらする母の頭をもう少し溶かしてやることにしたわたしは、はいはい、と席を立ってキッチンに向かった。
母はもともと翌日に有給休暇をとっていて、なおかつ酒の勢いも手伝い、その後は普段しないような話もたくさんわたしに聞かせてくれた。母が子どもの頃の話、父との馴れ初め、結婚に至るまでの話、働くということ、そして「別にあんたの好きにすれば良いけどさ」と何度も前置きしつつ、密かにわたしに願っていたこと。
途中からわたしはテレビを黙らせて、静かに耳を傾けていた。
「いい、菫」
母はしばらく話を続けたあと、我が家最後のビール缶をくしゃっと握ってから、普段のタレ目ではなく、真剣な眼差しをわたしに向けてきた。
「なに?」
「人生、いつ何があるかなんて、誰にもわかんないの。だから最悪何があっても、自分の力で生きていけるように、今からしっかり知恵をつけなさい。それでも――」
ふいに母が言葉を切った。テーブルの木目をにらみ始める。こりゃあ完全に酔っ払ってるなあ……と思いつつも、わたしは最後まで母の言葉を胸に刻まないといけない。
だから、お構いなしに訊いた。
「それでも?」
「あー。……傍にいてくれる人がいる間は『わたしは一人でも生きていけます』みたいに変な強がり方したらダメだよ」
この言葉を聴いただけで、察してしまった。
確かに母は酒に酔っているけれど、さっき急に黙り込んだのは、おそらく酔ったせいなんかじゃなかった。
「お母さん、それでお父さんと別れたんだね」
「あー、まあ――そうかな」
母はさっき潰したビールの空き缶を指で弾いた。がらん、と大げさな音が響く。
わたしが何度訊ねても、母はずっと父と離婚した理由をはっきり口にしてくれなかった。出会った頃の話はよくするけれど、別れの話になると毎回はぐらかされた。
きっと父に、おまえは俺がいなくても大丈夫だから……みたいなことを言われたのだろう。父の記憶はだいぶ薄れてきているが、そういうことを言いそうな、どこか女々しい人だったような覚えはある。そんなこと、娘には恥ずかしくて言えなかったんだろうな。
やっぱり、母が今日早く帰ってきたことには、ちゃんと意味があったんだ。勝手にそう答え合わせをして、大きなマルをつけたところで、母がしみじみとした顔をしながら、こんなことを言ってきた。
「いいなあ。私は今の菫が羨ましいよ」
「なにが」
「これから先も、たくさん恋をすることができるでしょ」
「お母さんだって、すればいいじゃない」
あっはは、と大きな声で笑う母は、すっかりいつもの調子に戻っていた。
「あんたが大人になってこの家を出ていったら、考えてみるよ」
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