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あの日のことは、きっと一生忘れられないだろう。
いつもと変わらない日常のワンシーンだった。
姉のかなえと愛犬のゆずの散歩をしていた。ゆずは甘えん坊の柴犬で、姉と私が一緒でないと、散歩をしたがらなかったから。交代でリードを持って、そのたびに足元をくるくる回るゆずはかわいいと思う。だけど、歩くのにはちょっと邪魔。蹴ってしまいそうでこわいからもうちょっと前を歩いてよ、と言っても、もちろん伝わるはずもない。その日もゆずは、私の左足にまとわりつくように散歩をしていた。
ふと、ゆずが足を止めて振り返る。
「どうしたの? ゆず」
私が行くよ、と言ってリードを引いてもゆずは動かない。私と姉はその視線の先を自然に追っていた。
勢いよくこちらに向かってくる大型トラック。信じられない光景に、思考が一瞬、止まってしまった。
それからいつも優しい姉に、強い力で突き飛ばされて。
気がついたら、ゆずを抱えて地面にへたり込んでいた。くーん、と悲しげに鳴くゆずの視線の先には、前面の潰れたトラック。そしてーーー。
「おねえちゃん?」
声が震えた。地面に横たわる姉は、ありえない方向に腕が曲がっている。それからじわじわと滲んでくる赤い何か。それが姉の血液だと気づくと同時に、私の意識は遠くなった。後から聞いた話によると、気を失ったわけではなく、ゆずを強く抱きしめながら、悲鳴を上げ続けていたらしい。
お姉ちゃんは、私を庇って死んだ。
ゆずと私は、ケガひとつしていなかった。
「かなえちゃん、事故だったんだって」
「まだ若いのに可哀想に」
「なんでも歩道に突っ込んできたトラックから妹を庇ったそうよ」
お通夜もお葬式も、気がつけば終わっていた。親戚が同情するような言葉を交わしているのも、姉の友達がわんわん泣いているのも、どこか他人事のように聞いていた。
少しずつ音が遠くなっていくような感覚にめまいがした。
家に帰ると、いい子にお留守番をしていたゆずが出迎えてくれた。私の周りをくるくると回り、わん、と元気に吠える。
「ゆずのお散歩……行きたくないな」
いつもは姉と二人で行っていたから。大好きな姉が死んだばかりだから。なにより、ひどく疲れていたから。
玄関にしゃがみ込んで、膝を抱える。くーん、とゆずが鼻を寄せてきたので、顔を上げないままその頭を撫でてやった。
父と母は、愛娘の突然の死を受け止めきれず、一気に老け込んでしまった。
かのんだけでも無事でよかったと、父は抱きしめてくれたけど、母は泣き崩れるばかりで、私の方を見ようともしなかった。
帰ってきてすぐに母は部屋にこもり、そのまま出てこない。きっと姉の写真を抱きしめて眠っているのだろう。まるでこれは悪い夢だと言い聞かせるように。
悪夢を見たのは私じゃないの?
目の前でお姉ちゃんが轢かれるところを見てしまった。お姉ちゃんの身体から大量の血液が流れ出るのをただ眺めていることしかできなかった。
指先に鈍い痛みが走り、我に返る。ゆっくり顔を上げて痛みの原因を確かめると、どうやらゆずが私の手を甘噛みしたらしい。噛まないようにきちんと躾けているはずなのに、どうしてだろう。
「噛んだらだめでしょ、ゆず」
その目をしっかり覗き込んで叱る。それなのに何故かゆずのしっぽは横に揺れている。
うれしいの? 何が?
私は今、絶望感でいっぱいなのに。
ゆずは姉がいなくなったことをどうやら理解しているようだった。死という概念を犬に理解できるとは思えないが、目の前で冷たくなっていく姉を一緒に見ていたのだから、もしかしたら、と思ってしまう。
今までゆずのお昼寝スペースだった居間の日当たりのいいクッションは、最近はずっと空っぽだ。
不思議なことに、姉の仏壇の前に置かれているクッションか、私の隣にいる時間が増えた。
「ゆずは分かるの? お姉ちゃんがどこにいるか」
すごいね、と頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。最近はゆずの散歩を父に任せっきりだ。ゆずは私と行きたがるのだが、半ば無理矢理父が外に連れ出すと、仕方なしと言わんばかりの不満げな様子で歩き出す。
あれから私は、外に出る頻度が減った。
トラックに突っ込まれるかもしれないという恐怖から? ううん、違う。外に出て、気づくのがこわいのだ。お姉ちゃんがいなくても、当たり前に世界が回っている、という事実を知ることが、どうしようもなくこわいのだった。
母は少しずつ、本当に少しずつ回復していった。ときおり急に泣き出して、かのんは絶対に長生きしてね、と私を抱きしめる。でもその目で見ているのは私じゃなくて、お姉ちゃんの遺影だということを、私は知っている。
父は気丈に振る舞っていた。もう少し落ち着いたら家族みんなでドライブにでも行こうかと提案してくれたこともあった。だけど、その日の夜に、父が姉の遺影を抱きしめて泣いていたのを知っている。かなえも一緒に連れていくからな、という言葉に、ひどく胸が苦しくなった。
ゆずは、私に甘えることが増えた。姉の膝の上で昼寝をしたり、ご飯をもらったり、遊んでもらったり、たぶんゆずが一番懐いていたのは姉だろう。その姉がいなくなってゆずもさみしいのかもしれない。私が家にいるときは、ずっとそばにいて離れようとしない。苦手なはずのお風呂にまでついてこようとするのだから、相当さみしい想いをしているのだろう。
深夜のことだ。ベッドに入ってからもう三時間は経つけれどちっとも眠れない。考えてしまうのは姉のことばかりで苦しくなる。
私の足元で眠っているゆずを起こさないようにそっと起き上がり、台所へ向かう。あたたかいココアでも飲めば、少し気持ちが休まるかもしれないと思ったのだ。
やけに寒いのは、この家が古いからだろうか。お湯を沸かしてホットココアを作り、少しずつ口に含む。甘ったるいココアは、姉の好物だった。
私はあまり好きではなかったけれど、眠れない夜はよく二人でこうしてココアを飲んだっけ。
あたたかいココアを飲んだのに、ちっとも身体があたたまらない。これじゃあたぶん、ベッドに戻っても眠れないままだろうな。
マグカップを抱えながらそんなことをぼんやり考えていると、遠くからゆずの鳴き声が聞こえてきた。くーん、くーん、と泣いているような声はだんだん近づいてきて、暗闇の中に犬のシルエットが現れる。
「ゆずも起きちゃったの?」
私が声をかけると、ゆずは寂しげな鳴き声をやめて、わふ、と小さく鳴いた。それからとたたた、と私に駆け寄り、寄り添うように座る。
「ゆずもお水飲む? 大丈夫?」
頭を撫でながら訊ねると、ゆずは私の手をぺろぺろと舐めてみせる。それがどっちの答えだったかは分からなかったので、お水を少しだけ手のひらに出して差し出すと、嬉しそうにそれを飲んだ。
ゆずに舐められているうちに手のひらがぽかぽかしてきて、残っていたココアを飲み干し、ゆずを抱き抱える。
ゆずの体温が伝わってきて、冷え切った身体が少しずつあたたかくなってくる。ゆずは湯たんぽみたいだ。
自分の部屋に戻り、ゆずを床におろすと、私より先にベッドに飛び乗った。暗闇の中でしっぽが横に揺れているのが分かる。
「ゆず、一緒に寝てくれるの?」
言葉は伝わらない。でも布団をかけた私のお腹の上あたりにゆずはポジションを決めて、静かに眠り始めた。その重みとあたたかさを感じているうちに、私もいつのまにか眠っていた。久しぶりに深い眠りだった。
「ねえ、ゆず。久しぶりに私とお散歩にいく?」
姉が亡くなってから三ヶ月。ようやく姉のいない生活に慣れてきた頃、私はゆずに訊いてみた。
ゆずは耳をぴょこぴょこ動かしながら嬉しそうに自分でリードを持ってくる。お散歩という言葉に反応したのだろう。
「…………お姉ちゃんはいないから、私だけで我慢してね」
私じゃ、お姉ちゃんの代わりにはなれないけれど。
そんなことを思いながら呟いた言葉の意味を、ゆずに分かるはずがない。分かるわけがないのに。
がぶり、と手を思い切り噛まれて、思わず悲鳴をあげる。母が「どうしたの!?」と慌てて駆け寄ってきたので、「ゆずに急に噛まれたの」と答えると、お母さんは泣き笑いの表情を浮かべて言った。
「この間、お母さんもゆずに怒られちゃった。かなえがいなくてさみしい、かなえのところに行きたいって呟いたら、思いっきり噛まれたの」
ゆずは普段噛んだりしないのにね、と言いながら母はゆずの頭を撫でる。満足そうな顔をしたゆずが、私を見つめる。
それじゃあまるで、自分を責める私を、この世から逃げ出そうとした母を、ゆずが叱ってくれたみたいだ。
「…………ゆず、そうなの? 私たちを叱ってくれたの? …………励まして、くれてるの?」
「なに言ってるの、かのんってば。ゆずはずーっと、あなたのこと励ましてくれてたでしょ」
「えっ?」
かなえがいなくなってから、ゆずはずっと、あなたのそばから離れようとしないでしょ。どんなに苦しくても一人じゃないよ、一緒にいるからねって言ってくれてるんだよ。
母のその言葉に、突然涙がこぼれた。姉が死んでから、ずっと涙腺が壊れてしまったかのように泣けなかったのに、ぼろぼろと涙が止まらなくなる。そんな私に寄り添って、ゆずは私の涙をぺろぺろと舐めてくる。その温もりが確かにずっとそばにいてくれたことにようやく気がついて、私は嗚咽をこぼすことしかできなかった。
「かのん、辛かったね。お父さんとお母さんと、ゆずがいるからね。一緒に生きていこうね」
お母さんに抱きしめられて、声を上げて泣いた。母が私を抱きしめて、私がゆずを抱きしめて、みんなで泣きじゃくる。きっと、ずっと悲しかった。ゆずだって大好きなお姉ちゃんがいなくなって寂しかったはずだ。それでもずっと、私のそばにいてくれた。励ましてくれた。そのことが嬉しくて、私はゆずに何度もありがとうと声をかけた。
赤いリードを首輪につけて、ゆずは早く行こうと私を振り返る。
玄関を開けると、眩しい太陽が差し込んできて、目がくらむ。だけど、一歩外に踏み出してみれば、ゆずが嬉しそうにしっぽをぶんぶん振るものだから、いつまでも落ち込んではいられない。
きっと、この先一生、あの日のことを忘れることはできないだろう。その後の苦しかった日々も、痛みとして記憶に残るはずだ。それでも、隣にゆずがいてくれる。その体温が、鳴き声が、私は一人じゃないと教えてくれている。
「ねえ、ゆず。またいっぱいお散歩行こうね。ゆずが寂しくないように、今度は私がそばにいるから」
伝わるか分からない言葉を、ゆずに投げかける。
耳をぴょこんと動かしたゆずが、くるりと振り返り、わん! と元気よく吠えた。
その姿に元気をもらって、街へと歩き出した。大好きな家族と、またひとつ思い出を作るために。
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