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電車を降りて、白熱灯がチラつく駅のホームを重い足を引きずって歩く。今日は疲れた。仕事にも、実らぬ治療にも、嫉妬に狂う自分にも。
足元をぼんやり目で追いながら、ICカードをタッチして改札を出た。
「アキちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、改札前の柱のそばに、くたびれたスーツ姿の亮介が立っていた。
その柔らかな顔を見ると、ダメだった。こらえていた一日分の悲しみが喉を震わせる。
「……亮介」
「おかえり」
微笑んだ亮介は、すっと自然に私の手をとり、その手を引いてゆったりとした足取りで歩き出した。
亮介の手の温もりは、私の手のひらによくなじむ。安心感に、ささくれだっていた心が溶かされて目の奥がツンとする。
駅を一歩出ると、暗がりにまばらな街明かりが浮かんでいる。亮介の指がいつものように、繋いだ私の手の甲をさすり、トントンとリズムを刻んだ。
夜に灯る街灯や店の看板が、みるみる滲んで光の筋しか見えなくなる。くっ、と喉の奥から声が漏れた。
私の泣き声に、亮介が立ち止まって振り向いた。
「あーあー鼻が真っ赤だよ」と笑いながら、空いている手でポケットから取り出したハンカチを私の目に押し当てる。思わず私も少し笑ってしまった。
普段頼りない夫なのに、こんなときばかり頼もしくて困る。
「ありがとう、アキちゃん」
「……なにがよ」
ハンカチでぐずぐずしている最中だったから、つっけんどんな声が出た。
「辛かったでしょう、治療。頑張ってくれてありがとう」
辛かった。注射や手術で痛かったとき、仕事と治療の板挟みで苛立ったとき、亮介にキツく当たったこともあった。「なんで女ばっかり」とどうしようもないことをぶつけたことだってあった。
なのに結果も出なかった。全然ありがとうなんかじゃない。
「でもふり出しに戻ったんだよ。また採卵から……最初からやり直さないといけない」
口にすると途方に暮れた。また最初から。先は長く、求めるゴールは果てしなく遠い。それでも妊娠するには、あらゆる最善を尽くしながら体外受精を続けるしか道はない。
向かい合う亮介の奥でぼんやり滲む街灯は、駅前からまっすぐ伸びた大通りを等間隔に照らしている。脇道にそれると、夜はきっと暗い。
アキちゃん、と名前を呼ばれた。真剣な眼差しの亮介と、目が合った。
「やり直すかどうかは、もう一度二人で相談しよう」
「え?」
なにを言われたのか、咄嗟に理解できなかった。保存したタマゴはもうないし、妊娠できなかったのだから、また採卵からやり直さないといけないのは明白だ。
困惑する私に、亮介はなおも続ける。
「このまま治療を続けるのもいいし、治療をやめて、これから先を二人で過ごすのだっていい。もしかしたら自然に妊娠することもあるかもしれない。そうならなくて、でもやっぱり子どもが欲しかったら養子縁組って方法もある。自分の子じゃなくても地域の子育てに関わるボランティアをするのもいいし、全然関係なく二人で旅行とか趣味に生きるのもいいよね」
養子縁組、ボランティア、と普段はおそらく目を向けないだろう言葉を連ねる亮介は、突き進もうとする私を引き止めているのだろうか。
「亮介……治療、辞めたくなったの?」
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