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月を見ないで
「悠河くん? こんばんは」
自転車を止め見上げた視線の先に、窓を乗り出しこちらに向けられる笑顔。
暗がりでひときわ眩しく、悠河は挨拶すら忘れた。
そんなことは気にせず、「待って、今そっち行くね」と言うが早いか姿はもう見えない。
不思議ちゃん。
初めて出会った時、ケーキを口に突っ込まれて以来、悠河からの印象だ。
「バイトの帰りでしょ、お腹空いてるよね。今日お店で出したキッシュがあるから、温めて食べて」
玄関ポーチを抜け転がるように出た不思議ちゃんにずっしりとした紙袋を渡され、悠河は中を覗きながら問いかけた。
「甘い匂いする……」
「えー。すご。バナナケーキも入ってる」
「そんなにしてもらう義理ない、俺」
「いいの。悠河くんは俺の焼いたスコーンを初めて買ってくれたひとだから」
「昼間の、あれ?」
「そう、美味しかった?」
「うん」
「だ、か、ら、悠河くんは特別だよ」
***
「こんにちは。昨日も来てくれたよね」
「うん」
不思議ちゃんはぽかぽかした陽を浴び、庭先のベンチで伸びをしている。悠河が側に自転車を止めると声をかけてきて、テントの中へ入るように促された。
「今日もお出かけ?」
「バイト」
挨拶だけでそら船へ行こうと思っていた悠河の予定はあっけなく崩れ去る。不思議ちゃんの圧力に負けた、と悠河は自分に呆れた。
「この店ね、マイスターストリートの、『ベイビーブレス』の姉妹店なんだ。売ってるものもほぼ一緒」
「あの、角の」
本通りを挟み、そら船と反対側に走る道にいつも混んでいるカントリースタイルのカフェがあることは知っていた。そこが本店ということらしい。
「うちの母親の実家、ベーカリーカフェとか、ショップを経営してるんだ。ここもそのひとつ」
「へえー」
「でも、このスコーンは俺のオリジナルだよ。俺がレシピ考えて、俺が作ったの」
トングでスコーンを並べながら、不思議ちゃんは嬉しそうに言う。
「その赤いの、何?」
「クランベリー、それとチーズ」
「それひとつ、あと、サーモンのサンドウィッチ」
「本当? ありがとう」
大きな目が輝き、くしゃくしゃになる顔。喜びが伝わり、普段は感情表現が乏しい悠河もつられて笑顔になった。
悠河の買い物を渡しながら、テントの外まで不思議ちゃんが見送りに出てきた。昨日とは色違いのフーディ。淡色デニムのペインターパンツ。
日本人の平均身長よりやや大きな悠河より小さな身体。長く細い手足。綺麗で頼りない。
「バイト頑張って」
「ありがとう。……自分も」
「俺、樹汰だよ」
自転車のロックを外して、悠河は樹汰に顔を向ける。
「それじゃあ、また」
「なんだよ、自分も、名前おしえてよ」
名乗らない悠河に口を尖らせ、樹汰が地団駄を踏んで不満を伝える。
「俺? 悠河」
「ユウガくん、素敵な名前じゃん? またね」
名前を聞いた樹汰が、ペダルに体重を乗せた悠河へ手を振った。
***
それだけでこんなにしてもらうのは、悠河にとって気の退けることだった。
お屋敷街のここで開店していればそれなりにいいお客さんが普通にいるだろう、自分よりも。
「今度、お返しする」
「いいよ、俺が、したくてやってるの」
「でも」
「明日は学校?」
「いや、バイト。俺、通教だから」
「あっ、そう、そうなんだ」
いまどき通信教育で履修していることは珍しくないが、この反応を見る限り、樹汰の周りにはいないようだ。
「連休もずっとバイト」
「そっか、じゃあたくさん会いにきて。お礼とかいらないから」
自分は別に、誰かに会いに来ている訳ではない。悠河には樹汰の言葉の意図がよくわからない。
「おやすみ」のひとことがなかなか言い出せず、時計の針はだいぶ進んだことに気づく。
月が明るく照らす道を車輪が進む。
樹汰の透明な笑顔は妙な達観を感じさせる。まるでもう何百年も生きて、ひとの酸いも甘いも知っているような。
でも、「会いたい」かは、悠河によくわからない。
〝おじさん〟と過ごし、会いたい人を待ち侘びた日々。それ以来、誰かに会いたいと思ったことは無かった。
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