8人が本棚に入れています
本棚に追加
苦い
「あそこは礼の家の近所なんだよ。近場で、このクロスバイクに乗ってるの俺の知ってる悠河くんかなと思ったの。正解?」
「それで? さすい」
連休の中日、悠河は楓に誘われ以前やってきたロースタリーを訪れた。それとなく樹汰の店での出来事を話すと、もう楓は知っているようだった。
閉店間際に滑り込んで手に入れたコールドブリュー。口に含むと少し酸味が強い。
「彼、なんていうか、金属でいったら白金? みたいな。硬質だけど柔かい感じ」
「へえ、言い得て妙、だね。優柔不断かと思えば妙に頑固なんだよ」
楓は商店街の狭い夜空を見上げながら、今まで以上に優しげな表情を見せる。横に座った悠河の鼓動があの時のように、ドクっと鳴る。
──楓くんは、恋してるんだ
ふたりの座るベンチは天蓋のような装飾がしてあり、イベントに合わせて薔薇が巻かれている。
この華やかさは幸せなひとたちのためにあって、自分は関係ないのだと、悠河の心が強く揺さぶられた。
「今日、元気ないよね? ツラみ? もしかしてなんかトラウマなことあったり?」
「いや、大丈夫」
「悠河くんは大丈夫とか、いつも言ってるでしょ。頑張りがちじゃない? 俺も同じ。で、助けてほしいって言えなくなるし、気にしてもらえなくなる。だから俺には言って?」
「うん、ありがとう。でも平気だから」
悠河は立ち上がり、止めてある自転車に手をかける。
「待てって」
「なんでもないから」
止めようとした楓の腕をそっと解く。ふたりの目が合う。
「俺はあのおっさんと出会って、過ごした時間はたかだか半年で、それにしては濃い時間だったけど、でも、悠河くんはもっと子供の頃からあのおじさんと……」
「そうだよ、俺が小3の頃からだよ。俺は、悔しいけどあのひと無しには何もできなかった。それまで箸さえまともに持てなかった。あのひとが全部全部おしえてくれたんだ」
「わかるよ」
「わかんないよ」
「そんなことねえって。どうでもいいとき、幸せなとき、なんでもないとき、思い出して自分が嫌になる。なんであのとき俺は、でもあのひとがいなかったらもっと最悪なことになってたかも、って堂々巡り」
「恨めもしない、感謝もできない。整理なんてつかねえよ」
「だから、心配なんだって」
言いながら楓が何度も瞬きをする。
「長い分、俺よりフラッシュバックがキツいはずだからさ、俺を頼ってよ」
楓自身にもトラウマがあるはずなのに、まるで冬を越え、甘い樹液を抱いたシュガーメイプルのように強い。
その瞳は綺麗すぎて、まともに見つめ合えない。
悠河は目を逸らした。
最初のコメントを投稿しよう!