なし崩される

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なし崩される

「こっち、入って」  樹汰に手を引かれ、家の中へ案内される。  連休の最終日、毎日顔を見せたお礼をしたいと、悠河はバイト後に樹汰の家へ招かれた。一度断ったものの、結局断りきれず、すごすごと言われるがまま屋敷の廊下を進む。 「俺の部屋狭いんだ。家の大きさから考えられないでしょ。本なんか収まりきらなくて、母親の書斎に置いてあるんだよ。まあ、ベイク関係は母親の本業だからそれでいいっていわれてるけどね」 「でも綺麗そう」  慣れない場所で、悠河は薄い返事しかできない。  案内されたダイニングはキッチンからリビングまで見渡せる、モデルハウスのような空間だった。  マーブル柄のテーブルにセッティングされた食器類。淡色のランチョンマットに並んだチキンソテーは黄赤く、うっすらとビネガーが香っている。 「いいの?」 「もちろん。家政婦さんが作ったから、俺は温めただけ。遠慮しないで。俺もたーべるっ」  樹汰はダイニングテーブルの向かい側へ座り、にこにこしてこちらを見る。 「嬉しそうじゃない? ごちそうになってるのは俺なのに。それに、お礼されるようなことしてない」  温まったロールパンから漂うバターの香り。ちぎって口に運ぶと舌へ乗せる前に美味しさが込み上げてくる。 「……あのさ、悠河くんは誰かと付き合ったことある?」 「ないよ? ていうか、急」  予想の斜め上の言葉に、悠河の言葉がうわずってひっくり返った。  そのまま口にしたら喉を詰まらせそうで、コンソメスープの載ったスプーンをそっと下ろす。 「じゃあ、俺たち付き合おうよ」 「付き合うって……」  悠河の脳裏を楓と恋人が肩を寄せ合う場面が浮かび、ふたりはそのまま抱き合い、その後のまぐわいを感じさせる──ところで、悠河の妄想は止まった。 「俺、悠河くんのこと好きだから」 「いや、簡単すぎない?」 「難しいものじゃないじゃん。俺が嫌いとか、そういう対象じゃないなら、一旦諦める、けど」 「でも」 「どっちかといえば、どっち?」 「どっちかなら、好き、だと思う。ここにいるんだし」 「キマリ」 「ズルくない?」 「全然ない」  いつのまにか樹汰は立ち上がって手を伸ばしてきていた。  その手が、パンを持った悠河の右手の甲に触れる。 「初めて会った時から、決めてた」  コンソメの赤い雫が、左手のスプーンからこぼれ落ちた。
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