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〝おじさん〟
「その話、した? 誰かに」
「いや」
雨足は強いまま。楓は耳を近づけてきた。
「楓くんだって言ってないでしょ」
「言わない、てか、言えなかった」
「過去形?」
「今は、全部受けとめてくれるひとがいるんだ」
くりっとした楓の大きな瞳がこちらに向く。店内照明のオレンジ色を虹彩が反射している。
背中越しに聞こえるカウンターの会話は、朝食にどんなパンが食べたいかという他愛のないもの。
悠河にはそれさえ羨ましい。そんな会話も、心を曝け出す話をする相手も、いない。
***
「悠河、聞いてる? やっと出番が来たんだから、頑張らないと」
劇団の稽古場で演出家が悠河に話しかける。
東京劇場での公演へ出演が決まったと、悠河は自主公演を終えすぐに聞かされた。急な話にとにかく粗相のないよう、劇団の稽古場では演技よりも基本の挨拶や所作に時間が割かれている。
その成果があって、物静かで出しゃばらない悠河の評判は劇場公演でも悪くなかった。
***
「悠河、疲れただろう。お風呂、お湯入れてあるよ」
「おじさ……ま」
窓際で座り込んだ悠河が振り向く。
週末、泊まりにおいでと言われるがまま、悠河は〝おじさん〟の家に来た。あの晩、車にいたひとだ。
親戚もいない悠河は、年長者から親しくされるのが、初めての経験だった。
自宅よりもずいぶん大きな湯舟に入り背伸びすると、大きな窓からこのマンションと同じくらい背の高いビルが幾つも見える。
見ず知らずの家で不安な気持ちと、家へ帰らなくていいという安堵がせめぎ合う。
帰っても母親の帰宅は夜中か、朝。余裕のある暮らしぶりはその代償に違いない。ひとりでは大きな部屋を持て余す。
それを余裕で上回るここで、眼下の高速道路を走る車。きらきらした灯が小さく流れるのをじっと見て、おじさんに笑われてしまった。
「悠河は夜景が好きだねえ」
振り返ると、おじさんは背中から悠河を囲い込むように立っている。
腕が周り、抱きしめられた悠河の身体がゆっくりと湯舟に浸かる。
おじさんの手がゆっくりと皮膚をなぞり、驚いた悠河は何も言えず震える身体を強張らせた。
「悠河、怖くないよ」
うなじにおじさんの唇が触れ、悠河は困惑したまま視線を湯に落とし、歪んだ顔を見つめる。
悠河には、「親しい」がわからない。
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