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彼と明日
『さっき見かけた。道で』
『なんだ、声かけてよ』
『ごめん』
『お店の近く?』
『そう。仲良さそうだった。友達?』
『ああ、仲良いよ。ていうか、つきあってる』
悠河と楓のメッセージのやりとりはそこまで。悠河は家に着いた。
「ただいま」
意味はないが念のため声をかけるのは、子供の頃から悠河の習慣。
シングルマザーの母親は所謂士業で生計を立てていて、生活面で貧しい思いをしたことは無かった。
悠河が高校生になり、独立した母親が事務所を開いてこの家に引っ越してきてからそれなりに時間の余裕があるようだ。
もっとも、いても、いなくても、今更たいした言葉を交わすことは無かった。
幼い頃から父親はいなかった。会ったこともない。
父親がいない理由を考えたこともあるが、時が過ぎていくとどうでもよくなる。考えたり、母親を問いただしたりするよりも、現実を受け入れた方が面倒がない。
物事がわかるようになると、母親がどこかの誰かの愛人で、自分は婚外子で、親たちの事情で引っ越したのだと気づく。
だから寂しいとかそういうこともなく、やはり事実を受け流すだけだった。
それがありふれたものかわからなくても、みんな何かしらの事情を抱えているし、大声で訴えたところで現実は変わらない。
ただし、弊害として躾は身についていなかった。静かに落ち着いているというだけで、簡単な食事のマナーも、箸の持ち方すらままならない。
根気よく丁寧に基本的な生活習慣を初めて教えたのは、〝おじさん〟だった。
「芝居はいいけれど、これじゃあ生きていくのも大変だよ」
「酷い箸の持ち方だね。そら、左手がお留守だよ。お茶碗持って」
「脱いだ靴は揃えて。服は畳んで。タオルはこっちに」
「そうそう。憶えたね」
出来ることと出来ないことのバランスのちぐはぐだった悠河が、常識的に生ているのはほとんど〝おじさん〟のおかげだと、悠河もわかっている。
不思議な模様の描かれたインド綿の部屋着に着替え、湯を沸かす。簡単にティーバッグの煎茶を淹れ、スマホのロック画面を確認する。
『悠河くん、明日連絡する。いま、ひとの家にいるからさ』
楓はきっと『彼』といて、楽しみな〝明日〟があるのだと思った。悠河には望む〝明日〟がまだ、よくわからない。
それでも時間は巡る。
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