8人が本棚に入れています
本棚に追加
マジック
まだ寝ている母親を起こすことなく、バイト先である「そら船」へ向かう。
今日はいつもと違う、お屋敷の並ぶ丘の上を走ることにした。
短い坂道を登りすぐ、初めて見かけるペイストリーショップの前で、自転車を止めた。
店、というより、道に面した駐車スペースの物置を改造をした、大きな露店に見える。
「いらっしゃいませ」
入り口から中学生くらいの男の子が顔を出した。それに気づかず、「お店、あったんだ。ここに」と思わず漏らしてしまう。
店内で目に入るのは、平台に並ぶ素朴な焼き菓子。チャンクしたチョコレートのスコーン。ドライフルーツのケーキ。溶けるマシュマロのクッキー。
ぐるりと見回せば、白い霞草があちこちに飾られた、カントリースタイルのインテリア。
「先週オープンです」
台の向こうでにこりと少年が笑う。オーバーサイズの白いフーディーが魔法使いのようだ。
「なにかテイスティングされますか?」
「え……、チ、チーズケーキ、いい?」
「もちろん」
正直な話、悠河はそれほど甘いものが欲しかったわけではない。入ってしまった手前、仕方なくしたチョイスだ。
少年は悠河の肩ぐらいの身体を伸ばして、小さくカットしたケーキを渡す。
ピンクの唇が動く。
「どうぞ」
差し出された木製のピックに刺さるケーキが、受け取ろうとした手を無視し唇を突ついた。
「いい匂いでしょ」
悠河が戸惑うのをよそに、ちょん、と再び唇が突かれる。口を開けろというサインだと気づき、甘い欠片を口に含んだ。
舌でほどける、発酵した乳の香り。
目の前で微笑む白い肌の少年とお菓子。白いテント。霞草。お屋敷街に現れた魔法の庭。
「またね」の声が耳に残ったまま、「そら船」への道を進む。陽射しが明るくクリアになる。
長いくだり坂でペダルを軽く踏むと、大きなチーズケーキの入った紙袋がガサゴソと鳴った。
最初のコメントを投稿しよう!