役に立つ犬

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「すみません、ちょっとよろしいですか。」  税関職員は、一人の男に声をかけた。その理由は、その男の側にコールが座ったからだ。  コールは麻薬探知犬であった。すこぶる優秀な麻薬探知犬で、非常に少量の薬物をものすごく巧みに隠していたとしても、コールの鼻はごまかせなかった。これまでに、コールが防いだ麻薬の持ち込み件数はとても数えきれないほどであり、中には、他の麻薬探知犬が見逃してしまっていたものもあった。  そんなコールは税関職員のみんなに可愛がられていたが、それはひとえにコールの優秀さのためだけではなかった。  コールは捨て犬だった。  今から三年前の雨の日、ある税関職員が、この空港の近くの茂みの中で倒れていたコールを発見したのだった。彼は通勤の途中、車のタイヤがパンクしてしまい、ロードサービスに説明する状況を確認するために、車を止めて外に出た。その時、倒れていた子犬を発見したのだった。子犬は弱っていたものの、まだ生きてはいた。その職員はロードサービスが到着すると車を彼らに預け、タクシーを呼び、渋る運転手を説得してその子犬と共に空港に向かった。空港には各種の探知犬がいたり検疫があったりするため、獣医がおり、獣医の手当てを受けたそのラブラドールレトリーバーは元気を取り戻し、真っ黒の毛並みからコールと名付けられ、探知犬の訓練を受けつつ空港で飼われることとなり、みるみる頭角を表して、現在に至っている。また、この劇的なコールの半生は、メディアでも取り上げられたため、コールは一躍人気者となった。今では、コールを見るために空港に訪れる者も少なくないほどになっており、コールも麻薬を持っていない人間には非常に愛想よく振る舞ったので、その空港の看板犬となっていた。もちろん、空港に来た人々は空港周辺で買い物をしたりするため、空港周辺の地域の経済にも貢献していた。そのため、コールは空港職員や空港周辺の人々から、とても感謝されていた。その地域には、コールが暮らす空港に足を向けて眠れないという人々もいるほどに重宝がられており、空港周辺の住民にとっても、役に立つ犬であることは間違いなかった。 「で、結局、その男は麻薬を持っていたのかな。」 「はい、鞄の三重底の中に、極めて微量ですがヘロインを持っていました。匂いを抑える特殊な処理も施してありましたがコールは発見しました。さすがですね。」 「そうか。またしてもお手柄だな。」 部下から麻薬持ち込み事案の報告を受けた彼こそが、コールを連れ込んだ職員で、この空港の税関長である。彼も優秀な職員であった。その国の税務省本省から出向してきたのだが、決して現場を馬鹿にしたりせず、むしろ尊敬すらしていた。本省の人間にしては珍しく、現場での勤務を強く希望しており、この空港の税関でも、本省出向者としてはかなり長く働いている。温厚で熱意ある人柄で人望も厚かった。 「君もコールもよくやった。では、警察と本省に提出する事案報告書を書いてくれないか。忙しいところすまないね。」 「もう慣れてきました。この国は麻薬の原料になってしまう植物が取れるから、税関に占める麻薬事案は多いと聞いていましたので。ただここまでとは思っていませんでしたが。」 「そればかりはどうしようもないからな。とりあえず、お疲れ様。コールにもよくやったと伝えてくれ。」 自分の部屋から部下がいなくなった後、税関長は自分の携帯電話を出すと、どこかに電話をかけた。 「首領、また、コールが接触した奴が出ましたよ。」 「でかしたな。 しかし、コールはよく何件も摘発できるなぁ。実にありがたいな。」 「本当ですよ。まさかここまで色々な奴と接触してくれるとは思いませんで。」 「まさかあの犬が、新種の脳炎ウイルスの無症候性キャリアだとは誰も思っていないようだな。」 「まさか国を守るための麻薬探知犬が生物兵器だとは誰も思っていませんよ。税関長の私がテロ組織の幹部だと誰も思わないのと同じことですよ。」  税関長の父親は獄死していた。飛行機に乗ろうとした時に爆発物探知犬が反応したことで爆弾テロリストだと疑われ、拷問まがいの厳しい取り調べを受け、それによって獄死したのだった。  ところで、彼は農家だったため、職業柄肥料を使っており、彼の服や体には窒素が染み込んでいたはずだった。彼の獄死の後に、爆発物探知犬は多くの爆発物に含まれる窒素の匂いに反応するので、彼は冤罪であるかもしれないと聞いたのだが、その時には、税関長と母は、もうどうすることもできなかった。  税関長は、実は税関を、いや、父親を奪った国を、いや、もっと言ってしまえば、爆弾テロなどというものが起こってしまうこの世界を憎んでいた。そんな彼が、学生時代にテロ組織と交流を持つようになったのは無理のないことであった。彼は、テロ組織の協力者として、警備情報などを得たりするために税務省の税関局職員になったのであった。この国では、税関局職員のような公安職公務員は試験の際に家族構成や出自なども調べられるが、彼は獄死した父親の婚外子であり、戸籍では辿れなかったため、爆弾テロを疑われて獄死した男の息子とは気づかれず、無事、試験を突破できた。その後は、真面目で実直な税務省職員として勤務しながら、裏で税関や警備の体制についての機密情報をテロ組織に流していた。また、税関や警備の体制を知ろうとする意欲は強かったので、非常に勉強熱心であり、たちまち、熱心な職員として人望を得るに至った。何しろ、それらが目当てで入職したのだから当然といえば当然であった。彼の情報はテロ組織にも大いに貢献していた。   そして、新たに開発された生物兵器である脳炎ウイルスを配置することを任された。そのウイルスは人畜共通感染症として開発され、感染力が高く、その割に致死率も低くないというように設計されていた。軽症や無症状のケースもそれなりには出るが、重症化するケースも少なくないように調整されており、治療に成功しても、麻痺、記憶障害や注意障害などの重篤な後遺症が出ることは十分想定されていた。これにより、発症者が出た国の医療資源や福祉資源は逼迫されると想定されており、また、動物にも感染するので、食糧事情にも混乱を引き起こせるとも考えられていた。何より、潜伏期間が数年間と非常に長く、その間でも感染能力を有しているため、気がついた時にはパンデミックがあちらこちらで発生し、それらの感染源の特定には困難を極めるというものであった。  テロ組織メンバーは事前にワクチン接種を済ませており、さらに、特効薬も完成させていた。頃合いを見計らってフロント企業からワクチンと特効薬を売り、大儲けしようという算段だった。  コールは、新型脳炎ウイルスを広めるための媒体だった。遺伝子操作をされていたコールは新型脳炎に感染しつつも発症しないという形質を有していた。そして、この国では麻薬事案が多いので、麻薬探知犬にすることができれば、少なくない数の人間と接触できるという考えのもと、三年前の雨の日、自らタイヤをパンクさせた税関長によって、彼が勤務する空港に、倒れていたところを助けられたというストーリーで送り込まれたのだった。  その後は、テロ組織の計画通りに麻薬探知犬となり、現在に至っている。 「いやぁ、まさかここまで活躍してくれるとは。コールみたいに優秀な探知犬ばかりだったら、私の父も死なずに済んだのかもしれませんがねぇ。」 「そう暗くなる話はやめろよ。ただ、その空港の看板犬になることは計画外だったな。」 「それはおっしゃる通りです。もはやこの地域、いやこの国の看板犬ですよ。コールを一目見たいという観光客も多いんですから。」 「ということは・・・。」 「それだけコールと接触する人間も多くなり、新型脳炎が広がる範囲も広くなりますね。」 「うむ。まさにその通り。そろそろ一件目のパンデミックが出てくる頃だろうが、どれほどの規模か楽しみだな。しかし、本当にコールは役に立つ犬だな。」
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