私がおすわりをする理由

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「クルちゃん、おすわり」  介護施設の面会室で、私が入るなりしわしわのおばあさんが言った。面会にいらしてた中年女性はギョッとした顔で私とおばあさんを見比べた。私は苦笑いしながら、おばあさん、飯島サクラさんの隣に歩み寄った。 「クルちゃん、おすわりよ。どうしておすわりしないの?」 「飯島さん、面会時間が終わりです。娘さんに挨拶してください」 「娘さん? やだ、どの人のこと?」  対面に座る飯島さんの娘さん、橋田ユカさんが唇をきつく結ぶ。認知症による見当識障害、実の家族のことがわからなくなってしまうのは、この特別養護老人ホームではよくあることだ。けれどご家族にとっては途轍もなく辛いこと。だからいつも対応には気を遣うんだけど、飯島さんに限ってはもっと大変だ。 「そんなことより、クルちゃん、お手」 「飯島さん、私の名前は吉田。クルちゃんじゃないの」 「お手出来ないの? お手はね、こうやるのよ」  飯島さんはそう言って私の手を取り、よしよしと頭を撫でた。しかもご褒美のおやつのつもりなのか、娘さんからもらったばかりのおかき(・・・)を一つ、私に渡してきた。  そう、どうやら飯島さんは私のことをクルちゃんという犬と勘違いしているようなのだ。人物誤認、例えば孫を娘と誤認するなんてのが有名だけど、そういうのも特別養護老人ホームではよくある。ただ犬と、それも職員が誤認されたケースは私が初めてだった。 「飯島さん、私は仕事中なの。お菓子は要らないよ」 「あら、食欲がないの? それなら今晩はおかゆにしてあげないとねぇ。カリカリをお湯漬けにして、チーズをちょこっと入れてあげる。大好きでしょ、クルちゃん」  こんな姿をご家族に見られるなんて……。だから別の人に担当をお願いしたのに、面会終了時間になって同僚が別の利用者さんに捕まってしまって、仕方なくお迎えだけ私が来たんだけど。  飯島さんの車椅子を押して面会室を出る。そのまま飯島さんの部屋に行ってベッドに寝かせた。さて、次の利用者さんの所に行かなきゃと息つく間もなく部屋を出ると、玄関口に橋田さんが一人で佇んているのが見えた。  もしかして、私を待っていた……?
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