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「橋田さん」
「あ、吉田さん。今日は母のこと、ありがとうございました」
「いえいえ、お構いなく。どうなさいましたか?」
「……いつも母はあんな感じなんですか? その、『クルちゃん』と犬扱いするのとか……」
やっぱり、聞かれると思った。なんて言われるかわからないけど、ここは正直に答えよう。
「はい。私が初めて担当についた時からです」
「あんな風に、芸をするように言われて、あなたはどうしているんですか?」
「基本的には受け流すことが多いですね。その、他の利用者様もいらっしゃいますので……」
「そうですか」
言葉を選びながら説明する私を見て、本当は恥ずかしいからっていうのは伝わったらしい。橋田さんは申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「あ、でも一度だけ、『おすわり』と言われた時に車椅子の足置きから落ちた足を戻すために偶然屈んだことがありました。その時はとても喜ばれていて……」
私は何を説明しているんだろう? 人間を犬と思い込んでいる肉親の話なんて聞きたくないかもしれないのに。
「本当にすみません。からかっているつもりはなくて……」
「どうして謝るんですか?」
「だって、こんな話は……」
「むしろ謝るのはこちらの方です。きっと吉田さんがそんな目に遭っているのは私のせいですから」
「というと……?」
「クルミは、母が飼っていた犬の名前です。母は夫に先立たれて、私は子供と遠方に住んでいたため一人暮らしで、クルミだけが家族でした。認知症が進んでいることは知ってましたが、私の住んでるアパートじゃあペットは飼えないし、結局世話は母に任せていました。でもある時、クルミは車にはねられて死にました。警察の方によると母は信号無視をしたようで、恐らく、認知症が原因だったと……」
橋田さんはそこで言葉を一度切られた。なんとなく「クルちゃん」が飯島さんの昔飼っていた犬の名前だと察しはついてたけど、そんな最期を遂げていたなんて。
「それは、可哀想でしたね……」
「クルミを失ったショックでしょう、以来母の認知症は急激に進行しました。娘である私のことも、その頃から段々わからなくなっていって……。もう一人暮らしは限界だと思って、ここを頼ることにしたんです」
「そうだったんですね。すみません、施設長以外は詳細を聞かされないもので……」
「吉田さんも見たでしょう。私がどんなに熱心に話しかけても、母は私が誰かわかりません。他人みたいに愛想笑いばかり浮かべて、一刻も早く部屋に帰りたがっているのが見て取れました。でも吉田さんには、本当に家族のような笑顔を向けていた。その笑顔を見て私、凄く……凄く、救われたんです」
「え? 救われた?」
はい、と短く言って、橋田さんはこらえるように目を瞬かせた。
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