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「母の頭の中から私が消えたことで、母はもう家族に会えなくなってしまいました。誰を見ても見知らぬ他人というのは、本当に恐ろしいことだと思います。でもあなたは、今の母の目に唯一家族として映ってる。きっと母にとってそれは途轍もない安らぎだと思います。だから本当にありがたくて」
「そんな、どうして私にも愛犬と思われているのかさっぱりわからないのに」
「癖毛でしょう、吉田さん。キャバリアって犬種、わかりますか? 耳の毛がふさふさしてるんですけど、吉田さんの髪がちょうどそんな具合ではあるかも、とは思いました」
「か、髪型が理由で!?」
「私にも確証はないですが、なんとなくそうなのかな、と」
思わず後ろにまとめた髪に手をやる。父親譲りの天然パーマで、子供の頃は散々泣かされたものだ。その髪が今度は私を犬にした……?
「あの、ただの職員にこんなことをお願いするのは失礼だと思うんですが。もしよければ母と、クルミとして接してもらえませんか?」
「え?」
「出来る時だけでいいんです。吠える真似をしろとかそういうのじゃなくて、『おすわり』って言われたらちょっと屈むくらいのことをお願い出来たら嬉しいなと」
「それくらいなら構いませんが……宜しいんですか?」
「宜しい、とは?」
「だって私は職員とはいえ赤の他人ですよ。なのに勘違いされていることをいいことに家族のふりをするだなんて。橋田さんもいらっしゃるのに」
橋田さんはグッと拳を握りしめながら、こくと頷いた。
「本当は、私がやるべきことでした。わかっているんです。母が私を忘れたのは罰なのだと。吉田さんならわかるでしょう。犬がいるから、遠方に住んでいるから、母が来なくていいと言ったから……そんなの、都合のいい言い訳にすぎないんです。私は認知症になった母から逃げ出したかった。母が私の知る母でなくなる現実を見たくなかった、母の面倒を見るのが面倒だった、母と喧嘩するのが嫌だった! だから私は全部、犬に押しつけていたんです。母の全てを、犬がいれば責任感でしゃっきりするだろうなんて暴論を並べ立てて。犬に介護なんて出来るわけがないのに、犬のご飯だって母に出来る保証はどこにもなかったのに。それがわかっていながら、私は目を背けてきました。親不孝者もいいところですよ。母だってこんな娘、忘れてせいせいしたでしょう。それこそ犬の方が大事で当たり前です……」
こんな想いを抱えていたなんて。でも実際、認知症を患った親を前にしたら、誰だって狼狽えると思う。
この仕事を始めて、世の中には色んな親子がいるのだと知った。親のことなど年金受給の金づるとしか思っていない人、完全に無関心でろくに連絡も取れない人、逆にこまめに連絡をくれたり、次に一度は面会に来たりする人もいる。橋田さんの場合は、確かに入所前は褒められたものではなかったのかもしれない。でもとてもマシだ。親不孝だなんてことはない。
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