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「あら、クルちゃん。また甘えに来たの?」
飯島さんの部屋に行くと、いつものように満面の笑みを向けられた。本来だったら橋田さんが向けられるべき笑顔だ。ずっと苦手だったけど、橋田さんの話を聞いた後ならとても貴重なのだと理解出来る。
「飯島さん、お風呂の時間で……」
「クルちゃん、おすわり」
私が話すのなんて構わずに飯島さんはそう言う。おすわり、か。食堂なんかの共有スペースなら注意を受けそうだけど、部屋の中ならばれっこないか。込み上げる恥ずかしさをぐっと呑み込んで、その場で屈んでみた。なるべく犬っぽく、少し股を開いて両手を床の方にぶら下げる。飯島さんは手を叩いて大喜びし、私を激しく手招きすると癖毛の頭をわしわしと撫でた。
「飯島さん、ちょっと、痛……」
「いい子ね~! クルちゃん、天才よ。こんなに可愛くて、賢くて、自慢の家族だわ! ユカももっと遊びに来てくれればいいのに。そしたらクルちゃんの可愛いところ、いっぱい見せられたのにねぇ」
ああ、そうか。この人は娘さんを忘れたわけじゃないんだ。誰が娘なのかわからなくなってしまっただけで。優しいお母さんだったんだろうな。橋田さんがそうだったみたいに。
「そうだね。じゃあお風呂に入ろうか、おばあちゃん」
「うんうん、入ろう。クルちゃんの体は私が洗ってあげる」
「洗われるのはおばあちゃんだよ。私に任せて」
「そう? なら宜しくね。ふふっ、なんだか不思議な気分だわ」
それについては全く同感。私もとても不思議な気分だ。
飯島さんにはこの世界がどう映ってるのかわからない。けれど残り僅かな人生を笑って過ごしてくれるなら、これくらいのことはしたっていいと思えた。
だって私がこの仕事を選んだのは、人が笑って最期を迎える手伝いをしたいって思ったからなんだから。
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