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テントを出ると、茶色い濁流が目に入った。水位が増しているかもしれない。僕はタロを抱えたまま、土手を注意深く登る。
すると急に頭上から声が降ってきた。
「悠太!」
お母さんだった。お母さんは僕に向かって手を差し伸べている。
僕はまずお母さんにタロを手渡した。お母さんはタロを受け取って一旦土手の上に置くと、もう一度僕に手を差し伸べた。僕はその手を掴み、土手を登り切った。
「タロ!」
僕はタロを抱える。今更になって膝が震えている。だけどタロが生きていてくれて、本当によかった。
お母さんは少しだけホッとした顔を見せたけど、すぐに険しい顔で僕に向き直った。
「川に行っちゃダメって言ったでしょ! 死んじゃったらどうするの!」
「仕事は?」
「台風だから早退になったの。帰ったら健太しかいなくて。そしたら麻美ちゃんに会ってここだって言うから」
お母さんは僕を抱きしめる。
「心配した。悠太は私の大事な子供なんだよ。かけがえがない存在だから、危ないことしないで」
でも。僕は立ち止まる。お母さんが怪訝な顔をして振り返る。
「でも、お母さんは健太を産んだじゃないか」
「はぁ?」
「かけがえのない犬が死んで悲しかったから犬は飼わない。僕がかけがえのない子供だったら、代わりの子供は産まないはずでしょ」
お母さんはショックを受けた顔をしていた。どうしてだろう。僕がそれを知った時、もっとショックだったのに。涙が滲んできた。
「何言ってるの? ねぇ、何言ってるの?」
お母さんは僕の肩を掴んで揺らす。僕はされるがままになっている。
「ずっとそんな風に思ってたの?」
僕は頷く。お母さんは、戸惑いながらも言葉を紡ぐ。
「ペットと子供は別に決まってるでしょ」
「分からないよ!!」
僕は叫んだ。弟が生まれたあの日みたいに。
「どうして人間と動物を分けて考えるの? 僕にはその方が分からないよ! 命は皆平等だって言いながら区別してしまえる気持ちが!」
僕はタロを抱きしめたまま叫んだ。
僕が、僕が助けないとタロは死んでしまうのに。
タロが死んでよくて、僕が死んじゃいけない理由って、なに?
お母さんは僕の肩を強く握った。
「いい、聞いて。子供を産むのと動物を飼うのは違う。ペットはもう既に生まれた子をもらうことだけど、自分の子供は産まないと会えないの」
今までにないくらい真剣に、目を合わせて。
「私が、あなたたちに会いたくて産んだの。人間だからじゃない。あなたたちだから、特別なの。健太も、悠太も、代わりなんかじゃない。代わりなんていない。健太も悠太も、特別な私の子供なの」
そう言ってお母さんは僕を抱きしめた。
お母さんは、泣いていた。初めて見る泣き顔だった。台風の雨に降られて、ぐちゃぐちゃになっている。
——なんだ。僕は、僕たちは。お母さんにとって、ちゃんとかけがえのない子だったんだ。
僕はお母さんの腕の中で、あの日みたいに大きな声で泣いた。
今度のは、嬉し泣きだった。
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