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 絵描きは、自分を幸せ者だと心得ていた。  絵描きは、自身の芸術を貫き通した結果、世に嫌われた。だが、本当に嫌われたくないものには、好かれた。つまり、彼の妻のことである。妻は、彼の芸術への一番の理解者であり、応援する者であった。妻が彼の絵を見る時、彼女の様態は尋常でなかった。瞳を潤ませ、キャンバスを両手に抱えるように持ち、絵と絵描きとを交互に見つめて、一つ感嘆のため息をつくと「あなたってすごいのね」と最大級の賛辞をくれた。絵描きはその言葉に大変喜んだ。誰でも良いわけではない。「あなたってすごいのね」と彼女が自分に向けて伝えてくれるから、嬉しかった。  絵描きは描き続けた。もっと彼女に気に入られたいと思った。彼女はまた、彼の作品の良き批評家でもあった。絵描きは彼女のどの助言も素直に聞き入れ、その通りを試みると、以前とは比べ物にならないくらい、魅力的な絵を描くことができた。絵描きは、彼女の色に染まってことを快感に思った。  彼らはそのまま結婚し、幸せな家庭を築くか、と思われた。が、結婚したのは確かだが、二人の間にはとうとう子どもは生まれなかった。その真相は推し量るに忍びないが、絵描きの古くからの知り合いである小説家によると、「望んだができなかったのだ」と言う。  絵描きは幸せ者だ、と冒頭に述べた。が、近頃はそれに確信を持てなくなり始めていた。と言うのも、絵描きの幸せは、最愛の妻に自身を受容してもらえるところにある。芸術家と言うのは元来、承認欲求の特別強い者である。妻のお墨付きで、彼の思考ないし存在が認められることは、この上ない幸福であった。が、最近になって、妻は絵描きの絵にあんまり興味を示さなくなった。絵描きは常に、妻を喜ばせるつもりで絵を描いてきたのである。それなのにどうして、以前より冷たくあしらわれなくてはならないのか。絵描きは分からず、苦悩した。  すると、不思議なことが起きた。絵描きはそれまで、ほとんど世に無いものと同然の扱いを受けていたが、ここに来て世間の批評家たちを唸らせ、うなぎのぼりにその評価を上げてきたのだ。彼は自分が絵を描いても妻が喜んでくれないものと見るや、その創作意欲を半分失いかけていたが、ある時最近に描いた作が高値で売れて、描き続ければ今度はお金で彼女を幸せにできるのではないかと考えた。ともかく、彼女の喜ぶ顔が見たかったのだ。  ところが、絵が飛ぶように売れても、妻は決して喜ばなかった。ましてそのおかげで笑うことなど、一度もありはしなかった。絵描きが、「何が欲しい? これまで我慢させてきてしまった。今君の願いを聞いて、幸せにしてあげたい」と持ちかけると、妻は滅法落ち込んだ顔をした。そして「何にも要らないです。ただ、あなたが絵を描いてくれてさえいれば」と答えた。絵描きは、やはり自分の絵は、目に見えなくとも妻を喜ばせているのだと確信して、ひたすら描くことにした。しかし、どうもおかしい。妻は夫の絵などにはほとんど見向きもせず、毎日家事をこなしながら、趣味と言えば唯一の手芸をたしなみ、どんどん夫への関心を失くしていった。夫はそんな妻の様子を見て、彼女は自分のことが嫌いになったのだと思った。それにしても、どうしてだろう? 分からないから、旧友に電話で相談してみることにした。 「ねえ、聞いてくれるかい? 僕は美術界で念願の大ブレイクを果たし、世に名を轟かせたわけだが、どうも気がおさまらない。妻が日に日に調子悪くなっていくのだよ。最近は手元のあみぐるみにばかり没頭して、僕のことなどには一向に構わない。以前は仕事の邪魔になるくらい、べったり僕の描く側に張り付いて『邪魔じゃなあい?』などと数分おきに聞いてきたものだが……どうもおかしいね。妻に嫌われるようなことをした覚えは、無いんだよ。それでも、嫌われたのは確からしい」 「何、嫌われちゃいないだろう」と電話の向こうで応答するのは、例の小説家である。 「そうかな。でも、以前より冷たくなったのは、紛れも無い事実だ。どうしてか、君には分かるかね? ……と言っても、私たちの家庭をずっと見続けているわけでもないからね、君は。特にここ二、三年はろくに顔を突き合わせて話もしていない」 「ああ、そりゃあそうだが……でも、僕には、君たちの間が冷めた原因なら分かるぞ」 「何? 聞かせてくれ」 「うむ。ともかく、君は選ばなくちゃいけない。君の愛する彼女なのか、名声なのか」 「その二つの内から選ぶのか」 「そうさ」 「決まっている、妻だ。しかし、私がそう思うところで、描けば描くほど私は有名になるし、妻には嫌われる」 「ふむ。……それじゃあ、僕も、まあ、もうちょっと考えておくよ」
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