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 奥さんは、近頃はすっかりまともに口をきいていなかった夫に向けて「頼みがあるの」と呼びかけた。夫は、少々驚いた表情をしたが、すぐに顔をしかめると、「何だ、時間が無いんだ」と憎々しげに言った。 「私の——私を、描いてくれない?」 「君を?」  絵描きはちょっと呆気にとられて、考えを巡らせた。もしや、これは最後の機会かも知れない。互いに心から愛し合うことのできる二人に戻るべく、妻が自分に課す試練なのかも知れない。絵描きはこのように身構えて、「ああ」と返事をした。  奥さんは、椅子を持ってきて、その上に座った。膝をすこし右へ傾けて、背筋をピンと伸ばし、絵描きと目が合うと、にこりと笑った。絵描きはまたしても驚いた。こんな美しい構図を見たのはいつぶりだろうと考える。彼女の表情には、昔よりは皺が多くなって、けれども、こうして見ると、少しも魅力は衰えていない。  まず絵描きは、彼女の顔の輪郭から筆を入れた。すっとなめらかな線が引ける。絵描きは何にせよ、奥さんのことをこの時真剣に見つめた。顔から胴体から足に至るまで、つぶさに注意して、近頃には無いほど筆先の描き出す点に集中した。絵描きはこの時、ちっとも作品を仕上げようと言う気が無かった。奥さんの、そのままを、ありのままを描き出すのが良いと思った。 「君、ちょっと服を脱いでくれないか」  奥さんは少しもためらわず、この要求を呑んだ。絵描きは、やはり熱心に、彼女の姿をうつし描きした。  二人は結局すれ違っている。けれども、この時ばかりは、奥さんの望みを、結果的に絵描きが叶えることになる。それでもって、二人は最期まで愛し合い、暮らしたらしい。
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