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黙想2-⒀
魔窟の一夜が明けると、流介はさっそく脱出と救出のための行動を起こし始めた。
階段を下り帳場を覗くと、まだ早いせいか真砂の姿も番頭の姿もなかった。
――表の掃除でもしているのかな。
流介が戸を開け外の通路に足を踏みだすと、玄関の脇にある小さな縁台に腰を下ろし茶を啜っている真砂と目が合った。
「あ……おはようございます」
湯呑みを置きそそくさと立ちあがろうとする真砂に、流介は「どうぞそのままでよろしいですよ。僕も端に座らせてもらっていいですか?まだ目が覚めぬもので」と言った。
「ええどうぞ。「外」ほどは気持ちよく目覚めないかもしれませんが」
流介は「おや」と思った。この「市」で本当の意味での「外」の話をする者に初めて会った気がしたからだ。
「いつ来られたか存じませんが、よくこの短い間に宿を営む準備ができましたね」
「ええ、宿は元々、両親が亀田で細々と営んでいたのです。看板なども「外」で使っていた物です」
「今はどなたがやっておられるのですか」
「もうございません」
「えっ」
「大火で焼けてしまいました。」
ああそうか、と流介は思った。確か十年ほど前、大きな火事がありたくさんの人が被害に遭ったのだ。
「前の大火なら、あなたは子供だったのでは?」
「はい、子供でした。しかしその火事で宿は焼け、父は逃げる近所の人を助けようとして煙に巻かれ亡くなりました」
「そうだったんですか」
「母も数年後にコレラで亡くなり、私は一人ぼっちでこの辺りを転々としていたのです」
「ご苦労なさったんですね」
「はい。でも追われるように逃げこんだ大森海岸で、私はある人と出会ったのです」
「ある人?」
「その人は若い男性で、私のことを砂地に咲くはまなすのように強い人だと言いました」
「はまなすのような人……ですか」
「私が『はまなす屋』の娘と知っていたのかどうかはわかりませんが、その人…明石智次郎さんは私のことをそう呼んでくださいました」
「その智次郎さんという方は、あなたにとって大切な方になったんですね」
「はい。智次郎さんは東京の大学に通っていたのを止めてこちらに来たのだそうです。そして智次郎さんは絶望に打ちひしがれる私に、ご自身の描く未来の話をして下さいました」
「未来……どんな?」
「今、この街には戦争で負けた人たちやよそから流れて来た人たち、火災で家族や家を亡くした人がたくさんいる。その人たちが居場所もなく街の外れに追いやられてしまうようではいけない、堂々と胸を張って自分の家や店を持てるようでなくてはいけない……と」
「偉い方がいるものですね。ではその方も、ここに?」
流介が尋ねると、真砂は頭を振って「亡くなりました。事故で」と短く答えた。
「そうだったんですか、すみません」
「三度目に会った時、智次郎さんはこの「自由の市」を思わせる壮大な計画を私に話してくれました。そして一緒に新しい街を作ろうとも言ってくれました。ですが……」
「不幸にして亡くなられてしまったんですね?」
「はい。私と会ってから三カ月くらいしたある日、風の強い日に船に乗っていて亡くなったたと智次郎さんのお友達からうかがいました」
「ではあなたがここに来られたのは、その方の死を知った後なんですね」
「そうです。彼を失い途方に暮れていた時に偶然、街でヘルヴィム様と会ってこの「市」のことを教えられたのです」
「なるほど、つまりあなたはヘルヴィム様が「彼」の意志を継ぐ人物のように思えたわけですね」
「そうともいえます。とにかくここに来てようやく、私は生きがいを見つけた気になりました。なぜならここに集まる人たちは、何らかの事情で元いた場所を追われた方が多かったからです。私はそんな人たちにいっとき、宿で身体を休めて欲しいといつも願っています」
真砂はそう言うと、少し寂し気な笑みを浮かべ誰もいない通路の奥を見つめた。
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