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黙想3-⑺
「この上が近道となっております。……少々、足元がおぼつかないのが難点ですが」
「まさか……」
安奈はついて来てというように目で合図を寄越すと、あっという間に階段を上り穴の向こうへと姿を消した。
「まいったな、これじゃ行かないわけにはいかないぞ」
へっぴり腰で後を追った流介は穴から顔を出した瞬間、「やっぱり」とため息をついた。
流介と安奈の前に広がっていたのは、はるか向こうまで続く長屋の屋根だった。
「安奈君、ここは屋上じゃあ……」
「あっ、あそこを見て飛田さん。たぶん天馬だわ」
安奈に促されるまま前方に目をやった流介は、遥か遠くで何かが陽の光を弾いていることに気づいた。おそらく鏡か何かで合図を送っているのに違いない。
「ひょっとしてあそこまで……」
「走ります。転ばないようお気をつけて」
安奈はそう言い置くと、でこぼこした隙間だらけの屋上をいきなり駆け始めた。
「おおい待っ……わっ、落ちそうだ」
流介は転びそうになりながら、兎か栗鼠のように屋上を駆けてゆく安奈の後を必死で追った。するとどこからか「なんだあいつは。……追えっ」という声が飛んできた。思わず振り向いた流介は、思いもよらぬ眺めに脚が止まりそうになった。
――屋根修理の職人たちか!
流介たちを追いかけてきたのは、上半身裸の男たちだった。だめだ、不安定な足場に慣れた職人たちに屋根の上の駆けっこで敵うはずがない!
「あ……安奈君、追っ手が来た、もう駄目だ……」
流介が喘ぎながら音を上げると、安奈が唐突に筒状の物体を取り出し「飛田さん、目を閉じて鼻と口を塞いでください」と叫んだ。流介が言われた通りにすると、背後で何かが転がる音と人の咳き込む音が聞こえた。
「げほっ、げほっ……なんてことしやがるんだっ……はっくしょん!」
流介が思わず目を開けた瞬間、痛みと共に咳とくしゃみが飛びだした。どうやら唐辛子や胡椒を詰めた何かを放ったらしい。
――薬味のない蕎麦なら十分頂けるが、蕎麦なしの薬味だけを喰らっても嬉しくないぞ!
流介は咳き込みながら鏡を持った天馬の元にたどり着くと、「天馬君、君の細君はやることが乱暴すぎるよ」と当たり散らした。
「やあ、そいつはすみません。……安奈、ここからは僕が飛田さんと行くよ。外で合流しよう」
「わかったわ天馬。私は亜蘭たちに早く外に逃げるよう、忠告して来ます」
安奈はそう言うとくるりと身体の向きを変え、近くの屋根に開いている別の穴へと潜りこんだ。
「やれやれ、いったいどこなんだここは」
「下に降りてみればわかりますよ。行きましょう」
天馬は自分が迷子にさせた男のことなどまるで顧みず、鏡をしまうと穴の中へ姿を消した。
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