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 夕焼けが滲む河川敷の高架下。雨風を凌げるようにと段ボールを移動させたのがまずかったのだろうか。わたしが学校の帰り道に通りかかると、子犬は待ってましたと言わんばかりにこちらへと駆け寄ってくる。 「もう、まだ居たのか。律儀なやつめ。そんなにわたしが恋しかったのかぁ?」  ふざけ半分で問いかけてみると、子犬は長い舌を垂らしながら大きく尻尾を振った。「もちろん!」と元気よく答えそうな表情だけれど、そのつぶらな瞳に隠された真意をわたしは知っている。 「……コイツが欲しかったんでしょ?」  試しに鞄から魚肉ソーセージを取り出してみると、食いしん坊な子犬は「わん!」と今日一番大きな返事をした。律儀にお座りまでしてるのが本心だだ漏れで面白い。  初めての出会いから、かれこれ一か月は経っただろうか。  家では飼えないけどこのまま放置するのは可哀想だと思い、新しい飼い主が見つかるまでの間だけしばらく様子を見に行くことにした。だけど一向に誰かが拾いに来る予感はしない。それどころかこのワン公、段々とわたしに懐いている気がして、いざと言う時に一人立ちできるのか不安になってきていた。  いつまでここに通えるのかどうか判らないのに。  高架下に座り込んで溜息をつくと、子犬は不思議そうに首を傾げる。どうやら自分の話だと気づいていないらしい。どこまでも能天気なやつだ。 「少しは自立できるように頑張ってよ? それこそ野良犬になっても生きていけるように」  野良犬、というか野良ロボット犬か。  優しく頭を撫でてやると、ワン公はふにゃりと表情を和らげた。土埃を被って僅かに固くなった体毛。川の水か何かで洗いたくなるけど、機械だから濡らしたら故障するかも、と考えるとなかなか手を出せなかった。  濡れたタオルで拭くぐらいだったら大丈夫だろうか。そうやんわりと考えたその時、不意に子犬の表情が変わったことに気づいた。舌は出しっぱなしだし、尻尾も相変わらず動いている。微かに口角が下がっただけなのに、何故か胸の内で「しまった」と思ってしまう。  案の定、と言ったところか。子犬は誰かが一瞬でスイッチを切り替えたように、わたし目掛けて飛びかかってくる。 「ちょっ、何すんのさ! やめてよ、くすぐったいなぁ!」  笑いながら制止するのもお構いなしに、ワン公はひたすらわたしの顔を舐め回してくる。頬、唇、首元。顔中の至るところが唾液だらけになって、おまけにさっきあげたソーセージの匂いが拒絶する間もなく染み付いていく。 「ちょっと、やめてってば! このままだと制服汚れ──いたっ」  急に鋭い痛みが染み渡ってきて、思わず顔が引きつってしまう。流石のワン公も、わたしの声に驚いたのか攻撃を中断する。  やっちゃったなぁ、と思いながら鎖骨の辺りをさすると、また痺れるような痛みが走る。服の襟で隠していたつもりだったけど、どうやらさっき飛びかかってきた時にずれたらしい。やっぱりばれるものはばれるみたいだ。  ──西野萌花って、やっぱり変よねぇ。  誰かが言った丸聞こえな陰口が脳内に響いて、嫌な記憶が蘇る。喧騒に溢れた狭い教室。くすくすと笑う声と、机の中に詰め込まれた濡れ雑巾。  思い当たる節はあった。理科の授業中、先生がロボット犬の価値について説明したことに対し、つい長々と反論してしまったのだ。  このことに関して先生は「実に素晴らしい発想だった」と絶賛してくれたけど、どうやらクラスの女性陣には気に食わなかったらしい。後から知ったけど、あの先生は同学年の女子から熱烈な支持を受けていたのだ。  ただ変わり者なだけで、先生に気に入られただけで、どうしてここまで酷い仕打ちを受けなきゃいけないのだ。  どこかでプツンと糸が切れて、気づいた時にはもういじめの主犯格に飛びかかっていた。二、三分程の取っ組み合いの末、お互いに痣が残った。けど普段のクラスでのイメージと何も知らない過半数の目撃者のせいで、わたしにだけ罰が下されることとなった。  やっぱりこの世の中、独りぼっちは弱いみたいだ。  ワン、という声で我に返る。目線を落とすと、白い光を灯した二つの瞳が不安そうにこちらを見つめていた。機械とは思えない憂いに満ちたその表情が、真っ直ぐとわたしの胸に刺さる。 「……そっか、あなたも独りぼっちだったんだよね」  覚束ない声音でそう言って、小さく毛むくじゃらな身体を優しく抱きしめた。表面は氷みたいに冷たいけど、内側からじんと温かいものが染み込んでいく気がした。 「大丈夫、あなたのことは独りにしない。新しい飼い主さんが見つかるまでだけど、これからもずっと会いに来るから。だから──」  わたしを、独りにしないで。  そう言おうとしたけど、間が悪いことに嗚咽が出て、上手く言葉にできなかった。  胸の奥が痛むほど、夜風が冷たい。
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