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 わたしとワン公の日々は、何だかんだで二か月経過しようとしていた。  まだ赤い落ち葉を一歩ずつ踏みしめながら白んだ空を眺める。本当に色んなことがあったな。家から持ってきた野球ボールで一緒に遊んだり、試しに「伏せ」とか芸を教え込もうとして失敗したり。トイレの仕方を覚えさせるまでにもかなり時間がかかった。  それと身体に関しても結局濡れたタオルで拭いてあげることにした。  綺麗になったあの子の体毛は、まるでビロードのように艶やかだった。  ドライヤーで乾かせばもっとふわふわになるんだろうけど、手持ちの扇風機でも本来の美しさが十分なぐらい判る。やっぱりロボットだから、と言いたいところだけどこの感触や温もりはどこか生き物らしさも感じられる。  今日は何をしようかな──はやる気持ちを抑えながら、わたしは河川敷へと続く遊歩道を進んでいく。そろそろ名前を付けてあげようかな。今まで新しい家族が出来た時のためにやめておいたけど、二ヶ月も名前が無いのは流石に可哀想だ。  川のせせらぎやちびっ子の喧騒が聞こえ始めて、自然と歩く速度が速くなっていく。そうして歩道から川岸へと降りたところで、毛むくじゃらな生き物がポツンと座っているのが見えた。嬉しいあまりつい頬が緩んでしまう。 「ワン公!」  お待たせ、と言葉を次ごうとした、その時だった。 「一号! やっと見つけた……!」  馴染みのない声が背後から聞こえて、思わず足が止まる。  今まで高架下に近づく人なんて一人もいなかったのに。恐る恐る後ろを振り向こうとしたところで、すぐ横を長身の人影が走り過ぎていく。 「全くもう、どこ行ってたんだよぉ。心配したんだぜ? 急に段ボールごと居なくなるんだから」  両膝に手を置き、ぜぇぜぇと息を荒げながらその人は言った。白髪の混じったボサボサの黒髪。場違いの白衣。歩み寄って顔を覗き込んだところ、眼鏡をかけた四十代ほどの男性であることが判った。 「ほら、お家へ帰るよ? ここに居続けたら色々とまずいから」  お家へ帰る──もしかしてワン公の元飼い主さんだろうか。  めでたい話なのに、何故か胸の中がずしりと重い。矛盾した感覚に囚われながらもあの子の方を見て、すぐにはっとした。  いつもの歓迎ムードがない。元飼い主との喜ばしい再会のはずなのに、飛びつくどころか身体を強張らせている。何でだろう、ある程度人懐っこい性格だと思ってたのに。 「ああ、もしかして君が面倒見てくれたの? ありがとうね」  不意に声がかかってきて、びくっと肩を震わせる。「いえ、お構いなく」とか簡単に返せば良かったのに何故だろう。柔らかいはずの相手の眼差しから鋭く冷めた空気を感じ取ってしまった。 「どういうわけか判らないけど、本来置いていた場所から急に箱ごと居なくなってて……二か月間ずっと探し回ってたんだけど、君のお陰で一号も調子悪くしないで済んだみたいだ。助かったよ」  聞き終えた頃に思わず固唾を呑む。疑いすぎだろうか。お礼の言葉のはずなのに、節々から妙な違和感を察知してしまう。 「ちゃんとお礼がしたいけど、生憎今は何の持ち合わせもなくてね。とりあえず一号は引き取らせてもらうよ。この子、結構デリケートな体質だからいつまでも放っておけないし」  そう優しく微笑んで、白衣の男はワン公へと歩み寄っていく。  邪念を払おうとかぶりを振った。何を疑っているんだろう、わたしは。元の家族が迎えに来てくれたんだ。あの子にとってこれ以上の幸福は無いはずなのに。もう雨風や土埃に晒されたり、寂しい思いをしたりしなくて済むはずなのに。  本当にこれで良いのか、と考えてしまうのは我儘なのかな。 「さあ、一緒に帰ろう。君にはまだやってもらいたいことが……って痛っ⁉︎」  突然、男の叫び声が辺りに響き渡る。はっと我に返り顔を上げると、なんとワン公が凄い形相で白衣の男の手に噛み付いていた。いくら恐怖心を刺激されたとはいえ、こんな果敢に相手に立ち向かっていくのは珍しい。 「こら、やめなさい! そうやってすぐ噛み付くからすぐ人間に嫌われるんだぞ!」  激痛に悶えながら、男は手に食い付いたワン公を思い切り振り払った。直後、その小さな身体が地面に叩きつけられ、土埃が舞う。驚くあまり、両手で口を覆う。目の前で時間が止まったような感覚だった。  けど、驚いたのは白衣の男も同様だった。最初は怒りで歪んでいた表情も「きゃん」という悲鳴が聞こえた途端、すっと血の気が引いていく。そんなつもりはなかったのに、と言わんばかりに目を大きく見開いて。  そうして不安が爆発したのだろう。身体を起こしたワン公はすっかり興奮して、わたしたちの立つ後方へと駆け抜けていってしまう。犬の走る速度は尋常ではなく、あっという間に遊歩道の向こうへと姿を眩ませた。  どくん、と鼓動が鳴った。  このまま無我夢中で走ったら、きっとあの子は──。 「ワン公!」  そう叫ぶや否や、わたしはワン公の後を追い走り出していた。  ちびっ子の小さな悲鳴。自転車の鋭いブレーキの音。横から流れてくる様々な音を、木枯らしと共に背中の向こうへ置いていく。動悸が耳の奥で鳴り響く。今にも心臓が破裂しそうだったけど、ぐっと苦痛を呑み込み夢中で足を動かす。  河川敷を離れ、住宅街を駆け抜け、やがて中学校に面した広い道路が視界に入る。その横断歩道沿いに、小さく毛むくじゃらな何かがキョロキョロと辺りを見回しているのが見て取れた。良かった、そんなに遠くまで行ってなかった。  ほっと胸を撫で下ろして駆け寄ろうとしたその刹那。  耳の端で嫌な音を感じ取った。  すぐさま横に目線を移し、呼吸が止まる。風の音ぐらいの小さな駆動音──電気自動車だ。きっとワン公は今パニックになってて動けないんだ。このままだと追突しちゃう。 「だめ──!」  気づいた時には、車道へと身を投げ出していた。  石のように固まったワン公に向かって、わたしは目一杯手を伸ばし跳躍する。鉄の塊がぐんぐんと迫ってくるのを感じ取る。  何か冷たい感触が肌に張り付き、直感する。そうか、きっとこれが死の予感なんだ。このまま痛い思いをして、意識ごと空中に投げ出されて、ロボットのこの子だけ生き残って──。  いや、それだけは駄目だ。わたし、この子を一人にしないって約束したんだ。  ぐっと身体を前に傾けて、ワン公を抱きかかえたまま前転の姿勢になる。そのまま道路を転がり、横向きに倒れ込んだ。直後、目の前で反対車線の自動車が急ブレーキで停まり、けたたましくクラクションを響かせる。  大丈夫ですか、と心配する運転手の声。そして、ワン公が顔を舐めてくる感触。思わず息が漏れる。わたし、生きてる。この子と一緒にまだ、生きてるんだ。 「ちょっと、大丈夫⁉︎ まさかこんなことになってたなんて」 「一号は無事か?」  すると間もなく、二人の男の声がわたしの元へ駆け寄ってくる。一つはさっき聞いた白衣の男。もう一つは、もっと昔から聞き馴染みのある声。 「近くにいた人から聞いたよ。まさか身を挺して庇ってくれたとは……君は命の恩人だ。お礼なら何でも……って」  恐る恐る、声の主へと目を向ける。馴染みはあるけど、その台詞を言うにはあまりにも不自然な声。 「萌花? 何でこんなところに」  どうやら相手も同じ気持ちだったようだ。七三分けの黒髪に生え揃った顎髭。近所のおばさんに似てると言われた猫みたいな両目。 「お父さんこそ、どうして」  ポカンと口を開けて、わたしはその目をじっと見つめた。さっきの恐怖や痛みが空の彼方へ吹き飛ぶぐらい、意外過ぎる再会だった。
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